−日記帳(N0.367)2002年10月25日−
チェチェン紛争の歴史的背景

モスクワから1500キロほど南の黒海とカスピ海の間のコーカサス山脈の北側にカフカスと呼ばれる地域(上図の赤色の部分)jが有ります。この地域は北にロシア、南西にトルコ、南東にペルシャ(イラン)という、昔から強大だった3つの帝国の境界にあたり、いくつもの勢力がこの地で攻防を繰り返していた点ではアフガニスタンと似た歴史を辿っております。

この地域には無数の小さな民族が住んでおり、強国が攻めてくると、5000メートル級の高峰が連なる険しい山に篭もり、難を逃れたり抵抗運動を展開したりしてきました。そうした民族の中に18世紀以前にこの地域にやってきたイスラム教スンニ派の教徒の民族がおりました。それがチェチェン人です。 ところが、彼等は他宗教儀式と混じり合うことを容認するイスラム神秘主義(スーフィズム)を信奉していたため、これが後世になってチェチェン紛争の遠因になるのです。

18世紀末、チェチェンの南のオスマントルコ帝国が衰退し始めると、北方のロシア帝国が南下政策を展開し、ロシアの軍隊は、チェチェンなどカフカス地方の無数の小さな民族を征服していきましたがその際に大きな抵抗をしたのがチェチェン人でした。しかし、その抵抗も空しく1859年に隣国の ダゲスタンと共にロシア帝国に併合されてしまいました。

そして、1917年の ロシア革命の乗じて、チェチェンとその周辺のイスラム教徒たちは「北カフカス首長国」の建国を目指してロシア皇帝の軍隊や共産軍などと戦いましたが、その最中、チェチェンにやってきたロシア共産党の代表は、大幅な自治権を認めるから自分たちに味方するよう求めてきました。当時ロシアでは、皇帝の勢力と共産勢力との間で全面的な内戦になる可能性があり共産党はイスラム教徒を味方につけておきたい狙いが有ったのです。

結局、北カフカスはソ連邦の中に組み込まれて約束は守られ、1922年にチェチェンは自治州になりましたが、それは形だけのことで、ソ連の統治が始まるとチェチェンでのイスラム教スーフィズム信仰は革命に反するとし、これに反発する多くの宗教者たちは犯罪人として逮捕、処刑されたのです。

それでも、チェチェン人は結束を固め、村々をつなぐ宗教のネットワークを作って、他のイスラム地域では事実上壊滅したイスラム教スーフィズム信仰は地下組織的活動ながら生き残っていました。これに手を焼いたソ連当局は、村を解体して集団農場にすることで結束を崩そうとしましたが、どこに連れて行かれても、氏族とスーフィズム、血縁と信仰が絡み合ったチェチェン人同志の強いきずなは保たれロシアに対する組織的な憎悪が拡大していったのです。

ところが、チェチェン人同志の強いきずなを断ち切る絶好のチャンスが見つかったのです。第2次大戦でナチスドイツが1942年にカスピ海バクーの油田地帯を目指してチェチェンを占領した際にチェチェン人がナチスに協力したとして、チェチェン人等を強制移住させる口実が出来たのです。

1944年2月、当時のチェチェンでは人口の半分近くを占める25万人、北カフカス全体では100万人が、スターリンの命令で家族ごとカザフスタンに強制移住させられたのです。しかしそれもチェチェン社会を解体することは出来ず、強制移住先のキャンプでの生活の中で氏族とスーフィズムのネットワークが復活し、むしろ人々の受難は信仰心を強化することにつながっていきました。

強制移住が終わり、人々がチェチェンに戻る許可をもらったのは、1957年のことでした。 人々が10数年前に自宅だった場所に帰ってみると、そこには見知らぬロシア人たちが住んでおりました。チェチェン人が強制移住させられた後、彼らの土地は当局によって所有者不在とされ、政策によって移民してきたロシア人に割り当てられてしまっていたのです。

今もチェチェンの人口の2割を占めるロシア人の多くはこの末裔で、1994年と99年にロシア軍がチェチェンに侵攻は彼らロシア人を守るという名目が有りました。チェチェン人にとって、1991年のソ連崩壊は帝政ロシア、ソ連に数限りない迫害を受けたチェチェン人が憎むべきロシアから分離独立する絶好のチャンスと考えるのは当然の成り行きでした。 そこでこの機を捉え、チェチェンでもソ連空軍の将軍だったチェチェン人のドダエフが共産党のザガイエフをクーデターによって追放し、チェチェンを西欧型の自由主義を持った国にすることを目指して独立を宣言しました。
−日記帳(N0.367)2002年10月25日−
チェチェン紛争の歴史的背景

ドダエフが提案したチェチェン憲法は信仰の自由をうたっていたため、信仰の自由化が進みロシア革命以来初めて、メッカ(サウジアラビア)への巡礼が許され、多くの人々が巡礼に行き始めました。 その結果、中東からの聖職者の流入や、メッカへの巡礼や留学によって中東のイスラムを学んで帰ってきたチェチェン人が増えた結果、地元のスーフィズムの聖職者と衝突が起こりました。

サウジアラビアで主流のイスラム教は「ワッハビズム」と呼ばれ、伝統にのっとった厳格な作法を信仰者に求める「原理主義」的な考え方で、「聖者」などの人間を崇拝することや、歌や踊りを宗教儀式とすることに反対しているのに対し、 チェチェンのスーフィズムには、聖者崇拝や歌や踊りの儀式が不可欠で、サウジからきたワッハビズムの聖職者はこれらを反イスラム的だと攻撃し、スーフィズムの聖職者と対立したのです。

こうしたイスラム原理主義勢力は、スーフィズムを排除して自分たちの教えを導入した山村を、当局の力の及ばない事実上の自治区域にし始めました。ワッハビズムが導入された山村では、既存のロシアの法律を破棄し「イスラム法」を導入することが宣言され、それを止めるためにやってきたロシア警察とは、銃撃戦も辞さない構えで対立しました。

このように、チェチェンの山岳地帯がイスラム原理主義の支配地域になっていくことに、ロシアは警戒感を強めた。チェチェンは1992年に新しいロシア連邦を結成する条約への調印を拒否しました。調印しなかったのは、ロシア内の21の共和国のうち、チェチェンとタタルスタンだけでした。(タタルスタンはロシア憲法裁判所で係争中) この反抗に対して、ロシア政府は2年間、チェチェン人代表と交渉しましたが、チェチェンの独立意思が固いことと、台頭してきたイスラム原理主義を押さえるために1994年9月、ロシア軍がチェチェンに侵攻しました。

ドダエフ大統領は、欧米に助けを求めましたが、親米政策を貫いていたエリツィン大統領の肩を持った。アメリカがエリツィン政権を敵視して追い詰めれば、エリツィンのライバルである旧共産党勢力が復権する可能性があり、冷戦時代の米ソ対立に逆戻りしかねないと判断し侵攻を傍観したのです。

ロシア軍の戦車部隊は、やすやすと首都グロズヌイに進軍し、勝利したかのように見えましたが、その直後、市内各所でのゲリラ軍の待ち伏せ攻撃が始まり、侵攻したロシア軍は壊滅してしまったのです。ロシア軍はこの年、3回にわたってグロズヌイを攻めましたが、いずれも勝てないまま、1996年にロシア軍は撤退し、チェチェン共和国は事実上の独立を勝ち取りました。

この戦いでドダエフ大統領は死亡し、マスハドフ首相が後継の最高指導者となりました。この1年8ヶ月の及んだチェチェン戦争で、ロシア軍約3,000人、チェチェン武装勢力約17,000人、チェチェンの民間人約6万人、計約8万人が死亡、20万人以上が負傷し、首都初め多くの町や村が破壊されたのです。

しかし、チェチェンではロシアとの和解のもとにチェチェン再建を進めようとするマスハドフ大統領派とイスラム原理主義を唱える過激派勢力の対立が深まり、過激派は反ロシア・テロを繰り返すようになります。 元チェチェン軍の最高司令官だったバサエフは1999年夏にゲリラ組織を掌握してイスラム原理主義の勢力を広げるため、東隣のダゲスタン共和国に数百人の部下とともに侵攻したことからロシア軍が再びチェチェンに侵攻し2000年2月にチェチェン武装勢力を首都グロズヌイから排除しチェチェンに駐留したまま現在に至っております。

今回のモスクワの700人余の人質をとっての劇場占拠は、チェチェンのビンラディンとも言われるバサエフをリーダーとする50名前後の武装勢力がチェチェンからのロシア軍の撤退を要求してのことでした。 結局、26日の特殊部隊の突入で劇場は制圧されましたが、人質67名が死亡、武装勢力もバサエフ以下殆どが射殺されると言う痛ましい結果に終わりました。

ロシアが例え、チェチェン武装勢力を一掃できたとしても、マスハドフ大統領率いるチェチェン共和国と独立、宗教の自由、石油パイプラインの利権確保(上図の黒線)を巡っての対立は容易に解消できず、それに永年に渡って虐げられてきたチェチェン人のロシアへの恨み、またチェチェンマフィア、相次ぐモスクワでのテロ事件によるロシア人のチェチェンに対する憎悪がが根強く残っているため、中東でのイスラムとユダヤとの対立と同様にその解決は容易ではありません。

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