エジプト古代史を彩る女性たち(1)
(エジプト最初の女王・ハトシェプスト女王)

メトロポリタン美術館蔵
(「古代エジプト女王伝」新潮新書から)
カイロ博物館蔵
(付け髭のハトシェプスト女王胸像)

ハトシェプストは、父トトメス1世の正妻イアフメスの第一王女として手厚く育てられ、父を偉大な王として慕い、兄弟がいなかったこともあって幼少より自分が正当な王位後継者と自覚していたように思われます。しかし、エジプト王家では女性は王位につけないため、父トトメス1世の下位の側室イシスとの間に生まれた義弟のトトメス2世が王位を継いだことを快く思わなかったことは当然の成り行きでした。

彼女にとって幸いなことに、トトメス2世は性格的に弱いところが有り、下位の側室の子であることから王位継承の正当性に欠けることを懸念し、正当性の高い彼女を妻にしたことにかこつけて、彼女は夫との共同統治を宣言して実権を握ってしまいました。

そしてトトメス2世がBC1504年に在位14年で死亡し遺言で息子のトトメス3世がわずか6才で王位を継いだことから、ハトシェプストは後見役の名目で実権を握り続け、治世2年目にしてついに王権を奪ってファラオを名乗り、名実ともに最初のエジプト女王として君臨し、幼いトトメス3世は、名目だけの共同統治者として歴史の片隅に追いやられてしまいました。この間、彼女はファラオとしての正当性を誇示するために、民衆の前には付け髭等して男装したと言われております。
(右上の写真は付け髭姿の男装のハトシェプスト女王の像)

彼女は女らしく、戦争目的の対外遠征をせずに紅海沿岸の都市プントやシナイ半島との交易を盛んに行って蓄財し、デール・アル・バハリに壮大な葬祭殿を造営しました。そして、その葬祭殿の裏にある男性のファラオ専用の墓地である王家の谷に葬られる事を強く望んで、トトメス2の王妃時代に造られた墓を放棄して王家の谷に改めて造営しさらにその入り口から、葬祭殿の玄室までつなげようと計画したものの硬い岩盤に当たり断念して王家の谷の方に玄室を造ったとされておりますがミイラや副葬品の存在は確認されていないようです。

こうして、権勢を欲しいままにしていた彼女にある転機が訪れ、その権勢は没落の一途を辿ることになります。権勢を維持するために、トトメス3世のもとに10才で嫁がせた娘のネフェルゥラーが若くして死亡したのがその転機でした。妻の手前抵抗を自粛していたトトメス3世は妻の死を契機に一気にハトシェプスト女王に反抗しはじめます。危機を感じ取ったハトシェプスト女王は共同統治を申し出ますが、成長したトトメス3世は、国境付近で蓄えた勢力で王権を徐々に握り、ついに小さい頃から大嫌いだったママ母のハトシェプスト女王を追放してしまいます。

トトメス3世は彼女をかなり恨んでいたらしく、実権を握ってから彼はハトシェプスト女王が建てた建造物から彼女の肖像画を悉く消し去っております。実際に葬祭殿の壁画に有った彼女の肖像画が悉く消し去られているのを目の当たりに見て、3500年の時代を超えた歴史の物的証拠に感動を覚えました。(左上の写真は男装ではなく、胸の膨らみも見られる珍しい画像)こうして、ハトシェプスト名は歴史からが消えて、19世紀初頭までルクソール西岸のあの荘厳な葬祭殿が彼女のものだとは誰も気付かなかったのですが、後世になって名実備わったエジプト唯一の女王として認められるようになりました。


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