エジプト古代史を彩る女性たち(5)
(古代エジプト王国最後の王朝クレオパトラ7世)


アレキサンドリアの博物館所蔵
(クレオパトラ女王の頭像)
プトレマイオス朝の銅貨に刻印の
(クレオパトラ女王の肖像)

ギリシャの隣にマケドニアと言う、1991年に旧ユーゴスラビアから分離独立し、ギリシャ、ブルガリア、ユーゴスラビア、アルバニアに囲まれた小さな四国の1.4倍程度の国が有りますが何故か、ギリシャと昔から仲が悪いのです。その理由が、ギリシャ人が蔑んでいたこのマケドニアのアレキサンダー大王にかって自国が侵略されたからだと言われているのです。

アレキサンダー大王はギリシャとの連合軍約3万5千人を率いて宿敵ペルシアを打倒してギリシアから西北インドにわたる世界帝国を建設しましたがこの大遠征からバビロンに戻りそこで熱病に罹り32歳の若さで死亡してしまいました。当然、この帝国の中にエジプトも含まれており、エジプトの地を踏んだ彼はその壮大な古代エジプト王国の遺跡に感動し、死後はこの地に埋葬するように遺言したと言われる程気に入ってしまいました。

アレクサンダー大王の死後、エジプトの総督に任命された将軍プトレマイオスは帝国の後継争いに巻き込まれて元帝国の将軍達から攻撃され、BC306年にキプロス島を攻撃してきたデメトリオス艦隊との海戦に挑んものの壊滅的な打撃を受けて惨敗し、残ったわずか8隻の軍艦とともにエジプトに逃げ帰った後、後継者争いが一段落してエジプトの王となりキプロス島を再占領して東地中海の制海権を獲得しました。これによってエジプト王国はヘレニズム帝国中最大の富を誇る強国になりました。そして、クレオパトラ女王はこのプトレマイオスの末裔ですので、生粋のエジプト人ではなくマケドニア人の血筋を引いていることになります。

その初代プトレマイオス1世から約280年後に、プトレマイオス12世と言うファラオがおりました。 彼には5人の子供がおり、その2番目の子がクレオパトラ7世で、上に姉1人と妹1人、下に後に夫となる弟2人がいました。ところが長女が父がローマに亡命している留守中アレクサンドリアの人々によってベレニケ4世として女王に推挙されエジプトを統治したものの、BC55年にローマのアントニウス将軍の援軍を得てエジプトにせめてきた父の軍に破れ父の手で処刑されてしまいました。 そして、BC51年にプトレマイオス12世は幼少の長男をプトレマイオス13世にしてに王国を譲ってローマに行ってしまいました。幼いプトレマイオス13世は当然王位につけるものと思っていたのに姉のクレオパトラが邪魔をし強引に姉と結婚させられ共同統治と言う名目で実権を奪われてしまいました。

しかし、プトレマイオス13世とその後見人達はクレオパトラの政治介入を嫌って反乱を起こしクレオパトラから王座を剥奪してしまいました。そんな折に、ローマでポンペイウスとカエサルの間で戦争が起こり、ポンペイウスはカエサルに敗れてエジプトに逃げ込んできますが、プトレマイオス13世はカエサル有利と見るやポンペイウスを暗殺してしまいました。ポンペイウスを追ってアレクサンドリアにやってきたカエサルが休養をするつもりでしばらく宮殿に滞在していたのです。

クレオパトラは、カエサルに自分の王位奪還を懇願するため直訴しようとしたのですが問題は、如何にして弟陣営の者に悟られずにカエサルが滞在する宮殿に潜入するかでした。そこで彼女は絨毯にくるまって身を隠し、貢物を献上するという口実でカエサルの前に運んでもらうことを計画し見事に成功しました。絨毯から躍り出て、驚くカエサルを前に自分の境遇を語り切々と協力を懇願すると、頭の回転が速く語学力に優れた勇気のあるクレオパトラに次第に心を奪われ、王位をクレオパトラに返すようにプトレマイオス13世に命じます。その後カエサルとクレオパトラは深い仲になっていきました。しかし、プトレマイオス13世側もただでは引き下がりません。密かに側近達が戦いの準備を進めカエサルに戦いを挑みました。

カエサルは直ちにプトレマイオス13世を軟禁し、ローマ属国に援軍の派遣を要請します。側近側はアレクサンドリア港に停泊している船団を出航させようとします。それを阻止するため、カエサルは船団に火を放ちます。船団は全滅し、その火がアレクサンドリア図書館にも燃え移り、数々の重要な蔵書が焼失してしまいました。マネトのエジプト史もこの中にありました。そして、戦いの最後には、王宮から追放されたプトレマイオス13世率いる反乱軍はローマ軍に敗れ、プトレマイオス13世はナイル川で溺死してしまいます。

カエサルの力をかりて弟王プトレマイオス13世を滅ぼし、 BC47年アレクサンドリア戦争を経て,弟プトレマイオス14世を共同統治者として王位を確立し、BC46年カエサルを追ってローマにおもむきカエサルの子と思われるカイサリオンを産みました。 一方、クレオパトラの妹のアルシノエはアレクサンドリア戦争でクレオパトラに抵抗してエジプト軍に加わったためローマ軍に捕えられ、カエサルによってローマに連行され市内を引回された後 小アジアのエフェソスのアルテミスの神殿に身を寄せておりましたがクレオパトラの要求によってアントニウスによって暗殺されてしまいました。こうして5人のうち姉、弟、妹が死に残るのは彼女と弟だけになり、その弟プトレマイオス14世と結婚して共同統治することで実権を奪い、BC44年カエサルが暗殺されたのでエジプトに帰国してこの弟を暗殺して実子のカエサリオンをプトレマイオス15世として共同統することで実権を維持しました。

BC41年アントニウスの命でキリキアのタルソスにおもむき,そこでアントニウスの心をとらえた。BC33年にはアントニウスと正式に結婚し、アントニウスは彼女にフェニキア、ユダヤ、クレタ等のローマ領を贈りBC34年には「大プトレマイオス帝国の宣言」をして彼女を「諸王の女王」としました。 その間ローマではオクタウィアヌスが元老院でアントニウスを弾劾しクレオパトラに対し宣戦を布告しました。クレオパトラに現を抜かしてローマの財産を食い物にしているアントニウスに対して元老院も批判的だったため、アントニウス打倒の布陣が出来上がっていったのです。

BC前31年のアクチウムの戦いに敗れ、翌年オクタウィアヌスにアレクサンドリアを占領され、クレオパトラ死亡との誤報に悲観したアントニウスは自殺、その自殺を伝え聞いてもはやこれまでと覚悟し、市内に引き回される前に毒蛇に自らの乳房を咬ませて自殺したと伝えられております。息子のカイサリオンも殺され、ここにプトレマイオス朝約300年間の支配は終わりを告げるとともに、5000年に及んだ古代エジプト王国は幕を閉じ、エジプトはローマ帝国の属領となりました。


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