−日記帳(N0.423)2003年 1月15日−−日記帳(N0.424)2003年 1月16日−
エジプト古代史を変えた男性達(2)エジプト古代史を変えた男性達(3)
(壮大なピラミッドで歴史観を変えたクフ王)(上下エジプトをはじめて統一したメンチュヘテプ2世)



カイロ博物館所蔵
(横から見たクフ王の彫像)
クフ王親子三代のギザピラミッド
(左奥がクフ王のピラミッド)
カイロ博物館所蔵
(正面から見たクフ王の彫像)


カイロ博物館所蔵メンチュヘテプ2世像
(何故か黒人の顔になってます)
メンチュヘテプ2世葬祭殿
(ハトシェプスト葬祭殿の左側に小さく見える)


クフ王はその存在が上の画像の僅か7.5センチの象牙製の彫像でしか確認されないほどに存在感の薄いファラオで、お世辞にもエジプト古代史を変える程の影響力を持っていたとは言えません。敢え選んだのは、彼が世界最大のピラミッドを建設しそれを後世に残してくれたことで、後世の人たちの古代エジプトに対する歴史観を変えたからです。正確に言うならば、「エジプト古代史の歴史観を変えたファラオ」です。

クフ王は第4王朝の創始者で、ダハシュールにある屈折ピラミッド、赤のピラミッドの2基のピラミッドを作ったスネフェル王と彼の異母妹で上位の王妃だったヘテプヘレス1世の子供として中エジプトのベニハサンの近くで生まれました。スネフェル王が第3王朝最後のファラオのフニ王の子で血がが繋がっているのにも関わらず王朝名が第3から第4に変わっているのは、多分スネフェル王の母、メルサンク1世が下位の王妃だったたために正統な血を受け継いでいないことによるものと推定されるが謎のままです。

クフ王には、異母兄弟のカワラ、ジェドフラ、カフラー等の息子たちがおり、カワラが第1後継者でしたがジェドフラによって謀殺されたらしく、ジェドフラが後を継ぎましたが治世8年の短命で終わりその後を異母弟のカフラーが継ぎ、更にその息子のメンカウラーが継ぎました。クフ王は父スネフェルを見習って巨大なピラミッドの建設を企画し、有能な建築技師で従兄弟のヘムオンの設計を任せましたが完成させたのは息子のジェドフラでした。

ところが、そのジェドフラは父のピラミッドより少し離れた場所にピラミッドを作ったのですが途中で放棄しているのに、弟のカフラーは父のの直ぐ横に父と負けず劣らずの巨大なピラミッドと更に門番としてスフィンクスを完成させ、その息子のメンカウラーも父の直ぐ横に規模は小さいもののやはりピラミッドを完成させております。こうして、クフ王の息子、孫の三代にわたってピラミッドを完成さえているのに長兄のジェドフラだけが完成させていないのは如何にも不自然でこれまた謎のひとつです。 私は、カワラの殺害も弟のカフラーの策略で、ジェドフラもカフラーによって殺害されたのではないかと思っております。

この、親子三代による3基のピラミッドはギザの三大ピラミッドとして、表面の化粧石は剥がさて石積みが剥きだしになってしまいましたが、4500年を経て今尚その壮大な姿を見せてくれます。尚、ピラミッド建設の目的に関する謎や三大ピラミッドの位置関係がオリオン座の三つの星に似ているとのオリオンミステリーなどについては、このサイトの「エジプト旅行での思い出の4景」に掲載しておりますのでそちらをご覧下さい。

クフ王はピラミッド建設以外にはこれと言ったことはしておらず、シナイ半島に遠征してベドウィンの勢力を抑えてトルコ石の採掘場を確保したり、アスワンから赤色花崗岩の切り出しを行なった程度で凡庸なファラオでしかなく、その足跡を探る手がかりは、上の彫像とアブ・シンベルの石切り場で見つかったクフ王の狩猟地と書かれた碑文しか有りません。しかし、世界最大のピラミッドの製作者として後世にその名を残しております。

ナルメル王が敵の下エジプトの象徴である赤冠を被って敵の死体検分に出かけたことがパレットに描かれておりますので、確かに上下エジプトを統一したことは事実と思われますが、その首都であるテーベ(現在のルクソール)は上下共通の首都として機能しておらず、下エジプトにはまだまだ反乱分子が横行しておりました。 第11王朝の開祖、アンテフ1世の時代は、「二つの国の王」を名乗りながらも、まだ、テーベ周辺地域だけしか支配しておりませんでした。

それから4代後に、メンチュヘテプ2世が王位についた頃、彼にに対立する第10王朝がまだ存立していましたが、その最大の後援者である上エジプト第13州のアシュート州候を破って名実ともにエジプトを再統一し、内政面では鉱山を開発して商業を興し、晩年はヌビアの反乱を鎮圧して同地の支配権を確立、プントとの交易で香料をエジプトにもたらし、ワディ・ハンマートから彫像用の石材を運んだりして、古代エジプトにはじめて繁栄の中王国時代の基礎を作ったことで、歴史にその名を残しております。

ルクソールのデル・エル・バハリの崖下にピラミッドを載せた列柱式のメンチュヘテプ2世葬祭殿を造営しましたが、約500年後に第18王朝のハトシェプスト女王がその直ぐ横にこれを真似して壮大なハトシェプスト葬祭殿を造営しております。(上の右の画像)メンチュヘテプ2世葬祭殿の背後には王妃や王子のための埋葬施設、一番奥に王自身の埋葬施設と祠堂、更に「バブ・アル=ホサン(騎手の門口)」と呼ばれる深いトンネルへの入り口があり、ハワード・カーターの馬がこれに躓いてトンネルが発見されたことからこの名前が付いていますが、いずれも何故か一般公開されておりませんのでその様子は判りません。

こうしたメンチュヘテプ2世の業績はその後のエジプト王朝に大きな影響を及ぼしております。その一つは首都をナイル川東岸に生者の都としてのテーベ(現ルクソール)に移したこと、そしてもう一つがナイル川西岸に王や貴族の墓等を祀る死者の都としてネクロポリスを作ったことです。彼はナイル東岸のテーベが都として大きくなっていくのを見越して、その西岸に墓を作ることを発案した。また彼の父メンチュヘテプ1世が中王国時代の祖として、アメン神の信仰を取り入れたことからアメンがものすごい勢いで神の中の神となっていくことでも後世に大きな影響を及ぼしております。

中王国時代の歴代の王は、古王国にならって、リシュトやダハシュールにピラミッドを建造しましたが、かつての黄金時代から比べると、規模はもちろん、技術的にも見劣りするものでした。 このように、政治、商業、鉱業、宗教の面でメンチュヘテプ2世は古代エジプト王国始まって以来、最大の功労者で、その治世は50年の長きに渡り、中王国時代の繁栄をもたらしましたが彼の孫に当たるメンチュヘテプ4世の代になって、家臣のアメンエムハトに王位を簒奪されて第11王朝は終わりを告げました。

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