−日記帳(N0.427)2003年 1月20日− −日記帳(N0.428)2003年 1月19日−
エジプト古代史を変えた男性達(4) エジプト古代史を変えた男性達(5)
(軍事力を強めて初めて異民族を追放したイアフメス王) (異例の王位継承と譲位で第18王朝の幕を閉じたホルエムヘ王)

カルナック神殿入り口
(イアフメス王の息子の造営)


王家の谷・ホルエムヘプ王墓内の石棺
(死者を守護する4女神の姿)
王家の谷・ホルエムヘフ王墓内の壁画
(神々から迎えられる王の姿 )

イアフメス王はその足跡を示す遺跡等が見つかっていないことから、彼をエジプト古代史を変えたファラオとすることには専門家は異論を唱えることと思います。しかし、少ないながらも関連資料を調べた感想としては少なくともイアフメス王はベストテンにはリストされる功績多大なファラオであると私自身は思います。その理由はナルメル王の上下エジプト統一以来、農業を基盤として平和的な国作りを行い、壮大なピラミッドを作ることなどに民力を向けていたのを異民族の侵入を受けて国が乱れてしまった第二中間期の屈辱的な経験を教訓にして自国の軍事力を強化することに国家の方針を大転換させて成功した最初のファラオがイアフメス王であると考えたからです。

エジプトは、ナイル川に沿って南北に長い国で、かつナイル川上流は急流になっているので南のヌビア地方からは容易に侵略されませんでした。一方、西はリビア砂漠、東は紅海を隔ててアラビアの砂漠ですので、この時代に至るまでは唯一侵入を受ける入り口はナイル川河口でした。西アジア方面に起ったインド・ヨーロッパ語族を主流とする民族大移動の影響を受け、ヒクソス(Hyksos)と呼ばれるセム系異民族が、BC1730年ころ、エジプト古代史で言えば第二中間期の第13王朝のケンジェル王の時代にエジプトに侵入してきました。

馬・戦車・強弓で装備したヒクソス人は、このナイル川河口のデルタ地帯を征服してアヴァリス市を拠点とし、主に下エジプトを支配して順次南下して、第13王朝から17王朝まで約1世紀の間エジプトを過酷に支配しておりました。彼らの侵入は一気にではな中王国時代から少しずつ移住する形で行われたためエジプト人がその脅威に気付くのが遅れたように思われます。

第13、14王朝まではヒクソスの侵略を受けながらも、辛うじてエジプト人による王朝が存続していたようですが シェシがBC1663年が第14王朝を倒して、エジプトに異民族による初の王朝である第15王朝をアヴァリスの町を中心に開き第17王朝までの108年に渡り君臨しておりました。ただ、第16王朝の頃その勢力が弱くなりテーベを主体とするエジプト人王朝の第17王朝と対立していました。その第17王朝の王にタア2世(セケネンラー2世とも言われる)がおりました。

彼は何としても、この異民族を追い出して祖国エジプトに平和を取り戻そうとして、ヒクソス王朝に戦いを挑み、壮烈な死を遂げました。後に発見された彼のミイラの頭蓋骨には凄まじいばかりの傷痕が有りその壮絶な戦死の様子が偲ばれます。その父の跡を継いだ第17王朝最後の王となったタア2世の息子のカメス王は宮廷人の反対を押し切って全面戦争を挑み見事に父の仇討ちに成功したのです。しかしそのカメス王も戦死か病死かは判りませんがヒクソス追放の野望を遂げることなく在位わずか数年で亡くなってしまいました。そしてその野望を遂げたのが、兄の跡を継いだイアフメス王です。

彼は奇襲をかけて、ついにヒクソスの根拠地アヴァリス市を陥れ、エジプト第18王朝の開祖になったのです。 敗走するヒクソス族を追ってパレスチナまでの破竹の進撃に国内の反テーベ分子も一掃され、ここに異民族王朝を倒し上下エジプトを再統一してエジプト人王朝を復活させたのです。 イアフメス王の元には強力な常備軍が編成され、兵士たちは短剣、棍棒、槍、弓矢、盾などで武装し、ヒクソスにならって馬と戦車も取り入れたので機動力は増大しました。この兵力は後のトトメス王朝に受け継がれトトメス一世はナイルをさらに南にさかのぼり、アジアでは北シリアからユーフラテス河畔にまで軍隊を進めてエジプトの勢力圏を拡大しております。ナイルのほとりに住んでいたエジプト人兵士たちは、川は北に流れるものとばかり思い込んでいたので、ユーフラテス川が南に流れるのを見て驚き、ユーフラテス河を「逆さ河」といって話の種にしたとの逸話が残っております。

こうして異民族の支配を1世紀に渡って受け続けたのに、エジプト文明は途切れることなく次の栄光の500年と謳われた新王朝時代にスムーズに移り変わっていったことも凄いことだと思います。それは、エジプトで崇められる神はすべてエジプトの神であり、外来の神々もすんなりとエジプトの神にされ、外来の人々もまた当時世界最高の文化を誇っていたエジプト人になることに憧れ、王たちもこぞってエジプトの風習を取り入れてエジプトの王たちと同じように振舞おうとしたためと思われます。

イアフメス王は治世25年で亡くなりましたが、エジプトにとって幸いだったのはその正妃のイアフメス・ネフェルトイリがまだ幼かった息子を補佐して偉大だった父に負けず劣らず名君の誉れ高いアメンヘテプ1世に育て上げたことでした。アメンヘテプ1世は墓と神殿を切り離す形式を最初に考案し、古代エジプトで最大の神殿であるカルナック大神殿の造営を指揮し、その子孫のトトメス1世、ハトシェプスト女王、トトメス3世、アメンヘテプ4世等は豪華絢爛たる栄光の新王朝時代のファラオとして君臨したのでした。イアフメス王にまつわる遺跡等が全く無いため、その代わりに、彼の息子のアメンヘテプ1世が造営したカルナッック大神殿の画像を貼り付けました。


このファラオが何故か、私には魅力的に思えるのです。彼は書記から軍人になって頭角をあらわし、アメンヘテプ3世の時には総司令官の地位についておりましたので、この時の王室の様子を、本サイトの日記「エジプト古代史を彩る女性たち(3」を基に私の勝手な推論を加えて再掲してみたいと思います。

中東のミタンニ王国の王女だったネフェルテイテイは、アメンヘテプ4世からの熱烈な求愛に応えて15才の若さでエジプト王家に嫁いできたものの、夫のアメンヘテプ3世に結婚して間もなく死に別れてしまいました。しかし、この美しく若き未亡人に対する周りの配慮もあって、アメンヘテプ3世の息子でその後を継いだアメンヘテプ4世と再婚します。つまり、義理の息子と結婚したわけです。

アメンヘテプ4世は父の3世と違い宗教改革に一命を賭した堅物でひたすらこの美しき義母ネフェルテイテイを愛していたようですが、それでも彼女以外の女性を何人か妻に迎えております。しかし、妻であり母であるネフェルテイテイの三女のアンケセナーメンを妻に迎えた時はさすがにネフェルテイテイは落胆し、離婚同然の状態になって別居したようです。つまり、アメンヘテプ4世は義理とは言え、母と娘を妻にしたわけで、ここからネフェルテイテイ親娘の悲劇が始まります。

ところが、このアメンヘテプ4世は脳腫瘍を患っていたらしく、これまた早死にしたため、アンケセナーメンもまた母のネフェルテイテイと同じように若くして未亡人になってしまいました。当然のことながらここで王位継承問題が起こります。この時点でホルエムヘプはファラオへになる策略を考えていたと思うのです。そのためには次の条件を満たす必要が有りました。

1.繋ぎの王をより短命に終わらせること
2.王位継承権を持つ王妃と結婚すること

王族でないホルエムヘプには王位継承資格は有りませんから、1.を満たすには繋ぎの王は余命の少ない高齢者か逆に政権を操れるぐらいに幼い者である必要が有ります。実際は20才前後のスメンクカーラーが継承し当ては外れしましたがホルエムヘプはこれを予想していたと思われます。アメンヘテプ4世とミタンニ王国の王女キヤとの間に出来たスメンクカーラーとツタンカーメン兄弟のうち長男のスメンクカーラーが王位を継ぐのは当然の成り行きだったからです。

ところがそのスメンクカーラー王がわずか3年たらずで謎の死を遂げてしまったためホルエムヘプの思う壺になり、更に都合のいいことに10才に満たないスメンクカーラーの弟のツタンカーメンを次期ファラオとの声が高まってきました。王位継承権は亡くなったファラオのより上位の王妃に帰属しますから、この時点でネフェルテイテイ、メリトアテン、アンケセナーメンの順位になりますが、何故か最下位のアンケセナーメンに王位継承権が帰属されているのです。つまり、何らかの事情で上位者が継承権を放棄または死亡しているかですが、ネフェルテイテイが放棄、メリトアテンが死亡していたとの説が有力のようです。

つまりネフェルテイテイは継承権を放棄する代わりに継承権を持つ娘のアンケセナーメンとツタンカーメンを結婚させてツタンカーメンが王位を継承するよう実力者のアイとホルエムヘプに働きかけてきたので、ホルエムヘプには思う壺ですからアイとともにネフェルテイテイに協力をした結果、ツタンカーメンがわずか9才で王位に就きました。ツタンカーメンは同じミタンニ王国の王女と夫のアメンヘテプ4世の息子だったので幼少の頃からネフェルテイテイは引き取って可愛がっておりましたのでこの結婚はネフェルテイテイにとって願ったり叶ったりでした。しかし、幼いツタンカーメンは叔父で宰相のアイと軍事権を掌握するホルエムヘプの傀儡となり、政治的には恵まれていなかったと思われます。

そして、これまたホルエムヘプにとって都合のいいことに幼いツタンカーメンは王位継承して10年足らずの18才の時に兄のスメンクカーラーと同様に謎の死を遂げたのです。ここで漸くホルエムヘプに王位継承のチャンスが巡ってきました。つまり、王族で王位継承の資格の有る者は老人の宰相アイ以外におりませんから、後は2.の条件さえ満たせば王位を継承出来ることになります。しかし、アメン神官団を中心とする周囲は宰相アイを押していたらしく、ホルエムヘプはここでも一歩退いてアイの後を狙ったと思われるのです。

一方、再びネフェルテイテイ親娘を襲ったこの不幸は致命的でした。母ネフェルテイテイは失脚し、娘のアンケセナーメンは最愛の夫を亡くした悲しみに加え、いずれも臣下のアイかホルエムヘプを夫に選ぶことを運命付けられ苦悩の日々が続きましたがいずれをも選ばずに彼女の母の母国、ミタンニ王国の王子ザナンザを選びエジプトに来るように手紙で懇願したのでしたが、この王子もエジプトへの旅の途中に暗殺されてしまい、一縷の望みを絶たれたアンケセナーメンはやむなくアイと再婚し、アイが王位を継承しましたがその4年後に他界してしまいました。

こうして、ホルエムヘプにとって都合の悪い人物は次々と死亡し、ついに彼の出番が回ってきましたが、残念ながら、2.の条件を満たすことはできませんでした。つまり、王位継承権を持つアンケセナーメンには更に次の夫を選んで王妃として残る意欲も気力もなく失意のうちに失踪したと伝えられております。そこでホルエムヘプはアンケセナーメンの叔母のムトノジメットと結婚することで形式上の王位継承を行ってアメン神官団の合意をとりつけて王位に就きました。そしてそれからが凄いのです。その後30年に及ぶ治世で、特に画期的な成果は出していない反面、ツタンカーメンやアイの建造物に自分の名を刻み、王名表にアメンホテプ3世の次の王を全て抹消して自分を位置付けているのです。

王家の谷に造られた墓は壮大なもので、ツタンカーメンに造られたのを勝手に転用したのではないかとの説も有るほどです。この王墓盗掘に遭いミイラも不明ですが、上の画像のように石棺、壁画は残っております。そして、これが全くの謎なのですが、それだけ苦労して得た王権をいとも簡単に自分の部下だったラメセスに譲ってしまったのです。その結果、イアフメス以来続いてきた第18王朝、つまりトトメス王朝は幕を閉じ、次の第19王朝のラメセス王朝に移っていくのでした。何とも理解し難い引き際で、謎が謎を呼ぶ波瀾万丈の生涯だっただけに私はこのファラオに魅力を感ずるのです。

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