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エジプト古代史を変えた男性達(6) エジプト古代史を変えた男性達(7)
(古代エジプト王国最強のファラオ・ラメセス2世) (ペルシャ王としてエジプト王になったカンビュセス2世)


ラメセス2世のミイラ
(カイロ博物館所蔵)
ラメセス2世の巨大な座像
(アブシンベル大神殿)

古代エジプト人は実に鷹揚な民族だと思います。異民族に侵略されて支配を受けても連綿として続くエジプト王家の王名にその名を連ねて後世に伝承しているからです。日本で言えば朝鮮半島や中国大陸の異民族に侵略された場合、その異民族を天皇家として認めることになりますから我々の常識では考えられません。

古代エジプトの歴史を変えたファラオ10傑に、敢えて異民族のカンピュセス2世を挙げたのは、彼が27王朝を開くことで実質的にエジプト人支配を終焉し、異民族支配の時代が始まったと考えられるからです。彼は自国ペルシャで謀反が起こったためファラオを部下のダリウスに譲位して急遽エジプトに帰りましたが、その後一時的に名ばかりのエジプト人王朝が樹立されたもののその後は二度とエジプト人王朝は実現しないまま古代エジプト王国は崩壊してしまいました。


今日2月22日はラメセス2世の誕生日です。彼が建造した多くの建造物の中でアブシンベル大神殿(上・右の写真)は最高傑作と言われており、誕生日の2月22日と戴冠式の10月22日の年2回だけこの神殿の入口から一番奥の至聖所にある4体の神像に朝日が一直線に射し込むのです。その時、4体のうち闇の神にだけ光が当たらないように仕組まれているのです。(この写真参照→)

エジプトから紅海、シナイ半島を隔てた現在のイラクが位置するメソポタニア地方はエジプトより早く古代文明が発祥しており、最初に古代エジプ王朝が開かれたBC5000年よりも2000年前のBC7000頃に既に、農耕が開始されていることはイラク東北部のジャルモ遺跡などで立証されております。この地域及びペルシャ(イラン)、小アジア(トルコ)、フェニキア(レバノン)、パレスチナ(イスラエル、PLO)、シリア、エジプトはオリエントと呼ばれ、東西の接点に当たるため様々な民族が興亡を繰り返しており、エジプトもその影響を受けておりますのでその関係を少しここで整理しておきたいと思います。


ラメセス2世の祖父のラメセス1世は、軍司令官出身で後に18王朝最後のファラオになったホルエムヘプに仕え、主に王家の守衛を任務としていた軍人に過ぎませんでした。ところがこのさしたる功績も無い一介の軍人が19王朝初代のファラオとなり、220年に及ぶラメセス王朝の始祖になったのです。その理由はいろいろ調べてみましたが判りませんでした。ホルエムヘプが子供に恵まれなかったとは言え、何故18王朝の血縁者に大政奉還せずに王家に無縁のラメセス1世に譲位したのか、これはツタンカーメンの死とともに永遠の謎と思います。

ホルエムヘプから王位を譲られたラメセス1世は既に高齢だったため即位2年後に息子のセティ1世に譲位しました。セティ1世は13年間の治世の中で、長年に渡る対外政策の無策によって失われたエジプトの利権を回復するためにシリア・パレスティナの臣属国に軍事遠征し、またデルタ地帯に後に王都となる、ペル・ラムセスの基盤を固めました。

そして、高齢の父から譲位されて苦労した自身の二の舞を息子(後のラメセス2世)にさせないように、息子が10代の頃から軍事遠征に息子を帯同させたり、譲位の前に息子と共同統することでスムーズに息子に政権を移行させることに成功しております。つまり、セティ1世のラメセス王朝の基礎固めをした功績は偉大で、その証拠に王家の谷の王墳の中でセティ1世の王墓は最大規模を誇っております。

ラムセス2世は67年間の長い期間、エジプト全土のファラオとして君臨しましたが、次のことが彼をしてファラオの中のファラオとして語り継がれ、彼以降、3世から11世に至るまで、何人ものファラオがラムセスに憧れてその名前を継承しております。

・軍事遠征による領土の維持・拡大:
・ネフェルタリへの熱愛と多くの側室:
・壮大な建造物の建造:

ラムセス2世は当初はシリア・パレスチナに軍事遠征しましたが、その後ヒッタイト王国の勢力が友好国ミタンニ王国をシリアから追い落とすほどに強大になってきたため再度シリアに遠征し、現在のシリア・レバノン国境近くのオロンテス河畔付近のカデシュでヒッタイトと衝突し、有名 カデシュの戦いが行われました。この戦いは両軍の痛み分けに終わりその後も小競り合いが続きましたがそれぞれの国内事情から和平に合意し世界初の和平協定が締結されました。この時、ヒッタイト国王ハットゥシリ3世は自分の娘のマト・ネフルラーをラメセス2世に嫁がせ、ラメセス2世は彼女を第一王妃にしたとの記録も残っております。

しかし、第一王妃は父セティ1世から贈られた側室の中から選んだと言われる絶世の美女ネフェルタリと言うのが通説で、アブシンベルに彼女のために小神殿を建造し、王妃の谷に最大規模の豪華絢爛なを作ったことをその証拠としております。彼は王妃ネフェルタリ、王妃イシスネフェルトとの間に出来た自分の娘も王妃にしてしまうなど、その側室は数百人を越え、200人以上の子供を作ったと言われる程の好色家で、「英雄色を好む」とは彼のためにあるようなものです。

絶大な権力を背景にエジプトを絶頂期まで繁栄させたラメセス2世は、自身の権力を後世に伝えるべく巨大なアブシンベル大神殿を創建し、更にカルナック、ルクソール神殿を増築し、これら神殿内に自身の巨像、立像、座像、彫像などを数多く造らせたため建築王とも言われております。

こうして、ラメセス2世は92才で死亡し王家の谷に葬られましたが、墓は盗掘により破壊されて所在不明となり、ミイラは盗掘者達から守るため、死から約200年後に父、セティ1世の墓に移され、更に父や他のファラオのミイラと共に秘密の埋葬場所に移されましたが、幸いにも1881年に40体もの他のファラオや王妃とともにデイル・アル・バハリの崖下で発見され、現在はカイロ博物館に保存・公開されております。(上・左の写真)

この日記「ユダヤ民族の歴史(4)」に書きましたように、ヨセフの時代にユダヤ民族が食料飢餓で住めなくなったためエジプトに移住し、多産でよく働いたためこれを恐れたラメセス2世が彼等を奴隷とし、生まれた男の子は全てナイル川に捨てるよう命じたと旧約聖書は記しております。そしてラメセス2世の王女に見つけられて彼女の子供として育てられたモーゼが義兄ラメセス2世の片腕として王族に加わりますが、同胞のユダヤ民族の窮状を救うべく義兄を説得して同胞をエジプトから脱出させたとも記しております。

問題は、その脱出の途中に気が変わったラメセス2世率いるエジプト軍に追われて紅海に辿り着いた時、紅海が2つに割れて出来た海底の道を走って対岸に渡りきった時、海が再び元に戻ってしまったため渡りきれなかったラメセス2世軍とともにラムセス2世がここで死亡したとの旧約聖書の記述です。これが事実ならラメセス2世のミイラが現存すべくもなく、それに92歳の老人が一軍を率いての行軍はまず不可能と思われますので、ここはエジプト側の遺跡に裏付けられている歴史を信用したいと思います。
ナルメルがエジプトを統一して第1王朝を開祖したBC3000年頃、メソポタニア地方でシュメール人が既に都市国家を作っておりましたが、BC2400頃 アッカド人(セム語族)に征服されアッカド王国に代わったものの、BC1700 頃復活してウル第三王朝が栄えたのも束の間、アムル人(セム語族)がこれを滅ぼし、バビロン にバビロニア王国建国を建国し、全盛期は6代のハンムラビ王(位BC1724〜1682)の時代に有名な「ハンムラビ法典」が制されております。丁度、この頃インドに侵入した印欧語族のアーリア人に追われたヒクソス(セム語族)がエジプト(第二中間期・14王朝の時代)に侵入してヒクソス王朝を開いておりました。

しかし、このバビロニア王国もBC1595に小アジア地方から勢力を伸ばしてきた インド・ヨーロッパ語族のヒッタイトに滅ばされ、更に同じ印欧語族のカッシートがバビロニア、ミタンニがメソポタニア北部を支配しながら抗争を繰り返しておりましたが、前8世紀から前7世紀にかけてエジプトう含むオリエント全域をセム語族のアッシリア帝国が統一しました。ところが、あまりに過酷な圧政を行ったため各地で反乱が頻発し、首都ニネヴェはBC609に滅亡してしまいました。

アッシリア滅亡後、オリエントには、メソポタミアからシリアにかけてのいわゆる「肥沃な三日月地帯」を中心に建国した新バビロニア王国(カルデア王国)、小アジアに建国したリディア王国、イラン高原を中心にできたメディア王国そして、エジプト(第26王朝)の4ケ王国に分立されます。しかし、ここで同じ民族系統に属するメディアに服属してイラン高原西南部に定住していた印欧語族のバサルカダイ部族の王アケメネスが前7世紀はじめに頭角を現してアケメネス朝ペルシャ帝国を建設し、キュロス2世(位559〜530B.C.)の頃、メディアに反旗を翻して征服し、更にリディア、新バビロニアを次々と征服し、更にキュロス2世の子カンピュセス2世が父が果たせなかったがジプトを征服して27王朝を開いてファラオになり、世界史上希にみる大帝国の基礎を築きました。

エジプトを征服したカンビュセス2世は、行きがけの駄賃とばかりにエジプトの南隣のエチオピアまで 手に入れようと考えたのが、実は彼の命取りになってしまいました。まずはスパイを派遣して敵情視察すべく親善大使を装った一団に贈物を持たせてエチオピアに派遣したのですが、エチオピア人に散々馬鹿にされて逃げ帰ってきたため、カンビュセス2世は怒り狂って本気でエチオピア征服をすべく自ら大軍を率いて進軍したのですが、頭に血が上って常軌を失ったため殆ど糧食の準備をしなかったため瞬く間に糧食は尽き、軍需品輸送用の家畜まで殺して食べる有様になってしまいました。

ここで引き返せばよかったのですが、強引に行軍を続けさせたため家畜も殺し尽くし、道草で飢えをしのいで砂漠地帯にさしかかると、10人一組で籤を引き、当たった者を殺してその肉を食べると言う、「カンビュセスの籤」が行われるに至って漸くカンビュセス2世は諦め退却してしまいました。更に嫉妬心の強いカンビュセス2世は聡明で人望の厚かった弟のバルディアを本国のペルシャに帰させた後に弟が謀反を起こす夢を見て刺客を送って殺してしまいました。

実は、その頃本国のペルシャで留守を任せていたメディア人マゴス僧のガウマタが実弟がカンビュセス2世の弟のバルディアにそっくりで同名だったのを利用して謀反を企てます。カンビュセス2世が実弟を暗殺したことは秘密にされていたのでガウマタは勿論、周囲の人たちもンビュセス2世の実弟が生きていると信じていた上、エチオピア遠征の失敗で人望が落ちていることもあってこの企ては一応成功します。

この謀反の知らせを聞いたカンビュセス2世は烈火のごとく怒り、一刻も早く本国に戻ろうと馬に飛び乗った際に 彼の剣の鞘がはずれて刃が腿に刺ささってしまいこの傷が元でカンビュセス2世は20日ほど後には死の床 についてしまいました。死に瀕した彼は信頼できる臣下を集めて実弟を間違って殺害した事実を告げ、マゴス僧達を倒し再び権力をペルシャ人の手に取り戻すように後事を託して亡くなりました。

この結果謀反は成功したかに思えたのですが、カンビュセス2世の臣下だった7人の侍たちがこの謀反に立ち向かい、マゴス僧たちを一人残らず殺して謀反を防ぐことに成功しました。実はこの7人の侍の中に、ダレイオスと言う名のファルス地方の総督の息子がおりました。当時まだ28歳の槍持ちの身分で血筋はキュロスと同じくアケメネス家の傍系の出身でした。

このダレイオスが結局、カンビュセス2世の後を継いでペルシャ国王になり、ダレイオス1世大王として、アジア、ヨーロッパ、アフリカに跨る世界史上最大の規模を誇るペルシャ帝国を築き、エジプトにその後120年続くダレイオス朝(27王朝)を開祖したのです。こうして、アケメネス朝は危うくカンビュセス2世の失態で滅亡寸前でこの有能なダレイオス1世によって復権して、アレキサンダー大王に滅ばされるまでの200年間、ペルシャ帝国としてオリエントに君臨し続けたのでした。

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