−日記帳(N0.463)2003年02月26日−
エジプト古代史を変えた男性達(8)
(エジプト人として最後のファラオのネクタネボ2世)

このネクタネボ2世を敢えてエジプト古代史を変えたファラオ10傑に選んだのは、彼が優れていたとか、立派な業績をあげたとか言った建設的な意味ではなく、単に彼がエジプト人最後の王朝の最期のファラオだったと言う消極的な意味でしかありません。むしろ、ファラオとしては凡庸で、それが故に自分の手で連綿と3000年以上続いてきたエジプト人による古代エジプト王国の幕を閉じてしまったと言えると思います。

アケメネス王朝ペルシャ王のカンピュセス2世がエジプトを征服して26王朝を開いたことは2月23日の日記で述べましたが、本国で謀反が起こったため急遽帰国する途中無念の死を遂げ、その跡を継いだ後のペルシャ大王ダレイオス1世の非凡な能力により、エジプトはアケメネス王朝の支配をその後120年間に渡って受けることになりました。

ペルシャ帝国にとってエジプトは属領の一部でしかなく、歴代のペルシャ王はエジプト王を兼ねていましたが、エジプトがアジア、ヨーロッパを結ぶルートから離れ地理的にさほど重要な戦略拠点ではなかったこともあって、ペルシャ王がエジプトに常駐するほど全力を傾注したとは思われません。

かって、ヒクソス、アッシリア等、エジプトを征服した異民族にも同様の事情がありエジプト支配の時代は長続きしなかったことを考えると、このダレイオス王朝による120年に及ぶ支配は異例の長さで、エジプト人勢力の抵抗力が低下したか、ダレイオス王朝側の政策がよかったかのいずれかですが私は前者だと考えております。

しかし流石の大帝国ペルシャも、アルタクセルクセス2世の頃、コリント戦争などによりその支配力は低下し、エジプトに手を回す余裕が無くなってきた間隙を26王朝の末裔と思われるサイス出身のアミルタイオスの反撃により27王朝は崩壊し、28王朝がアミルタイオスによって開かれました。しかしこの王朝は、サイスの隣メンデスに新王都を建設したネフェリテスに倒されて、僅か4年で幕を閉ネフェリテスが29王朝を開きました。

この頃、ペルシャは各地で内乱が起こりその鎮圧でエジプトまで手が回らず、28、29王朝を倒す余裕はありませんでした。この29王朝も2代目プサムティス王が暗殺され、暗殺者のハコリス王も周囲から正当性を疑われて短命に終わり、ネフェリテス2世が即位しますが暗殺され、デルタ地帯のセベンニトス出身の将軍、ネクタネボ1世が30王朝を開きました。彼もペルシアの侵入に備えて約20数万の外人部隊を率いて侵入したペルシア軍に一時は敗北したもののメンデス近郊の激戦で盛り返して撃退し一時期的にしてもエジプトに平穏を取り戻しました。

このように、30王朝はやや余裕が出来たこともあって、各地で神殿の建設や修復を行っております。中でも「ナイルの真珠」と称されるほど美しい景観の島だったフィエラ島のイシス神殿はネクタネボ1世、ナイル川中州のエレファンティネ島内にあるクヌム神殿はその息子のネクタネボ2世によって建設されております。

しかし、ネクタネボ1世の息子のネクタネボ2世の時代になると、ペルシャ帝国はマケドニアのアレキサンダー大王に押されて窮地にたち、これまで軽視していたエジプトに活路を求めて侵攻してきたためネクタネボ2世としては抗すべくもなく、メンフィス、ヌビアのナパタと敗走を重ねてエチオピアまで逃げ延びそこで消息を絶ち、ここに30王朝は開祖後僅か40年のBC343年に崩壊し、同時にナルメル王以来、3000年間に及んだ古代エジプト王国の最期のエジプト人ファラオとなり、エジプト人による古代エジプト王国は幕を閉じました。

こうしてエジプトを征服したペルシャ王、アルタクセルクセス3世が31王朝を開祖して5年後に暗殺され、アルセス王の後を継いだダレイオス3世は、BC333年に精鋭を集め、シリアへの入り口にあたるイッソスでアレキサンダー大王率いるギリシャ軍を迎え撃ちましたが敗退しダレイオス3世は負傷してペルシア帝国東北部のバクトリアに逃れました。しかしこの地の地方長官によって殺害され、BC330年、31王朝は僅か10年で幕を閉じ、同時に アケメネス朝ペルシャ帝国も崩壊し、エジプトを含むオリエントはアレキサンダー大王による大帝国によって統一されていきました。 この時、アレクサンダー大王はダレイオス3世の死を悼み、彼の母や妃を手厚く保護した上、ペルシア王に相応しい葬儀を執り行い更にダレイオス3世を殺害した地方長官を捕らえて八つ裂きにして仇を討ったと伝えられております。       
−日記帳(N0.464)2003年02月27日−
エジプト古代史を変えた男性達(9)
(最期の王朝を開いたプトレマイオス1世)

昨日述べましたように、エジプト人王朝最期の30王朝を倒した、31王朝のペルシャ王もアレキサンダー大王に破れ僅か40年で幕を閉じ、大王はBC332年にエジプトに凱旋し、マケドニア王朝を開祖しました。再びの異民族王朝にも関わらずエジプトの人たちは大王を解放者として大歓迎し正規のエジプトのファラオとして認めたのでした。

大王が、エジプトの地中海寄りのシーワオアシスにあるアンモン神殿へファラオとして神託を授かりに訪れた際に通りかかったのが現在のエジプト第二の大都会アレキサンドリアで、当時はラホティスという名の小さな漁村だったのですが、大王は戦略的に絶好の立地条件と考えて街作りを始めめました。

一方、大王はエジプトのことは身内に任せて、バビロンを新帝国の首都に定めてアラビア遠征の出発を間近にしたBC323年マラリアと推定される熱病に罹り闘病11日目にして32才の若さで世を去りました。大王の急死により帝国はその跡目を巡って大混乱に陥り、部将達はそれぞれに我こそ後継者と名乗りあげ勢力争いが始まり、この争いに巻き込まれた大王の王家の人々は全員暗殺され、結局BC301年のイプソスの戦いの結果、帝国は次の4王国に分割されて落ち着きました。

・インダス川から小アジア東部を支配するセレウコス朝シリア
・小アジア西部からトラキアを支配するリシマコス朝
・エジプトからシリア南部を支配するプトレマイオス朝エジプト
・ギリシア北部を支配するカッサンドロス朝マケドニア

大王と同郷で幼馴染のマケドニア貴族のラゴス将軍の息子で大王の信頼の厚かったプトレマイオス1世(前367頃〜前283)は大王の死後、エジプトに赴き大王が任命した総督を追い払いエジプトを支配下におさめ、更にキプロス島も手中にしました。ところが、BC306年にキプロス島を攻撃してきたデメトリオス艦隊との海戦で壊滅的な打撃を受けて惨敗し、残ったわずか8隻の軍艦とともにアレキサンドリアに逃げ帰ります。

しかしその後、後継者争いが一段落してプトレマイオス1世はエジプトの王となり、キプロス島を再占領して東地中海の制海権を獲得します。これによってエジプト王国はヘレニズム帝国中最大の富を誇る強国になりました。 BC304年には、ファラオを名乗ってプトレマイオス朝(BC304〜BC30)を開祖し、以後東地中海に領土を広め、大王の意志を受け継いでアレクサンドリアの街づくりを押し進め王朝の基礎を築きました。こうして、プトレマイオス朝エジプトは、ヘレニズム諸国の中でもっとも繁栄し、その首都アレクサンドリアはヘレニズム時代を通してもっとも繁栄した都市となりました。

そして大王が好きだったこのラホティスと言う街は彼の名前に因んでアレキサンドリアと名付けられプトレマイオス朝の中心都市として栄え、古代世界七不思議の一つであるファロス島の大灯台、古代世界の三大図書館の一つであるアレキサンドリア図書館は有名です。アレキサンダー大王の遺体はをプトレマイオス1世がマケドニアに運ばれる途中のダマスクスで略奪しアレキサンドリアの何処かに手厚く埋葬したと言われ現在でも考古学者達が懸命に探しております。発見されたら今世紀最大の発見になると現地ガイドさんが興奮して話していました。

プトレマイオス1世はアレキサンダー大王の後継者として優位にたち、パレスチナと下シリアをも得て繁栄し、30王朝の最後の王ネクタネボ2世の娘と結婚しましたが、エウリディーチェと結婚すると追放し、エウリディーチェの侍女ベレニケ1世、太守アルタバゾスの娘のアルタカマとも結婚し、ベレニケ1世との間に生まれた子供がプトレマイオス2世として跡目相続しております。

プトレマイオス1世から3世までの治世は、国王が行政の頂点に君臨して、マケドニア人が、ギリシア人を地方行政官として派遣するという行政機構が整備され、厳格な土地政策のもとで、租税として納められた穀物が国庫を潤しました。特にエジプト産の小麦は安価なため、量に輸出され、首都アレクサンドリアは交易や文化の中心として栄華を極めました。 しかし、プトレマイオス4世の代に至って徐々に衰退の一途を辿っていくことは、この「エジプトト古代史を変えた男性達」シリーズ最終編(10)で触れたいと思います。

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