−日記帳(N0.487)2003年03月22日− −日記帳(N0.488)2003年03月23日−
エジプト古代史を変えた男性達(10) エジプト古代史を変えた男性達
(無能さ故に王朝崩壊を早めたプトレマイオス12世)(10人のファラオたちの総括)

古代エジプト王国はクレオパトラ女王(正確には彼女の息子のプトレマイオス15世)でその幕を閉じておりますが、実態としては彼女の父のプトレマイオス12世の代で既に幕を閉じていたと私は思っておりますので、彼をエジプトト古代史を変えた男性達の最期のファラオとしてここで取り上げました。

何故ならばプトレマイオス王朝はプトレマイオス3世までは独立国家としての形態をなしておりましたが、プトレマイオス5世以降は内にあっては肉親同志が血で血を洗う抗争に終始し、外にあってはシリア、ローマなどの強国からの迫害を受けて国力は低下し、プトレマイオス12世の代でで既に余命は尽きていたと考えられるからです。

クレオパトラは確かにエジプトの女王になりましたが、それはローマの将軍たちの援護によるもので、彼女を中心としたエジプト人だけの力でありませんでしたし、彼女治世の時代もエジプトは豊かではなく重なる戦乱で国土荒廃しまさに断末魔の状態だったと思われます。

プトレマイオス4世以降の近親結婚に明け暮れた挙げ句、肉親同志の血みどろの争いの歴史を以下に纏めてみたいと思います。まず、プトレマイオス4世は実母のベレニケ2世を毒殺、実弟マグスを火あぶりにし、実妹と結婚しており、その息子のプトレマイオス5世の時代は内乱も有ったものの比較的平穏でした。

しかし、その息子のプトレマイオス6世はシリアのアンティオコス4世と戦い人質となり、その留守中に弟のプトレマイオス8世が王位に立ち、それに対抗してアンティオコス4世は人質のプトレマイオス6世を擁立したため兄弟で国内を二分して互いに争うことになりましたが、シリアの干渉に嫌気のさしたプトレマイオス6世が弟プトレマイオス8世と和解して同盟してシリアに戦いに挑んだものの逆襲を受けて再びローマに助けを求めその結果プトレマイオス6世がエジプトの王に収まりましたが後に戦死しました。

その父の死後、王位についたプトレマイオス6世を叔父の叔父のプトレマイオス8世が殺害し、妹のクレオパトラ2世及びその娘の姪にあたるクレオパトラ3世と相次いで結婚したものの前妻のクレオパトラ2世の謀反にあい クレオパトラ3世とキプロスに逃げたものの復讐心からクレオパトラ2世との間に出来た子供をバラバラにして母親のクレオパトラ2世に送り届けると言う残虐行為を行っております。

クレオパトラ3世とプトレマイオス8世との間に出来たプトレマイオス9世は母と共同統治したものの母は弟の後のプトレマイオス10世を王位につけようとしたためキプロスに逃げ延び、弟の死後エジプトに舞い戻って再び王位についております。

しかし、プトレマイオス9世には正当な嫡男がいなかったため娘のベレニケ3世が甥のプトレマイオス11世と結婚することで実権を握ったもののこれを嫌った夫のプトレマイオス11世の殺され、そのプトレマイオス11世も民衆によって殺され、ここにプトレマイオス王朝の正当な血統は途絶え、プトレマイオス9世の庶子のプトレマイオス12世が王位についたのがエジプトの悲劇でした。

このプトレマイオス12世はいい加減な男で、実妹のクレオパトラ5世と結婚し、BC65年にローマに媚びを売って60年にその王位を承認してもらいましたが、その親ローマ政策がアレクサンドリア市民の反感を買いBC58年エジプトから追放されローマに亡命してしまいました。

そこで、プトレマイオス12世の5人の子供のうち長女のベレニケ4世が民衆の支持を得て王位につき、前56年にポントス王国の王子と称していたアルケラオスと結婚して2人でエジプトを統治しました。ところが、本来なら娘の幸せを願って静かに亡命生活を送るはずの父プトレマイオス12世は、BC55年ローマのアントニウス将軍の支援を受けて娘のベレニケ4世と戦って勝利し、彼女を処刑してしまいます。

更に、無責任にもBC51年にまだ幼少の長男をプトレマイオス13世にして王位を譲り、自分はローマに行ってしまいました。これが悲劇の始まりで、幼い弟二人を傀儡にして実権を奪った姉の、後のクレオパトラ7世が女王として君臨し我が子を王位につかせるために一人の弟と妹を処刑し、もう一人の弟を死に追いやり、自らも自殺、その息子も殺されて完全にプトレマイオス朝の血縁は絶たれ、無惨な王国の終焉が告げられたのでした。これも、全て父、プトレマイオス12世のその無能さに起因していることは明らかと私は思います。
古代エジプト王国3000年の歴史を変えたファラオ10人を取り上げてみましたが、改めてこの10人の歴史における位置づけを整理して下表に纏めてみたいと思います。


ファラオ名王 朝 名在位年数歴史を変えた理由
ナルメル第1王朝不明 エジプト王朝の開祖
ク   フ第4王朝23 ピラミッド絶頂期を築く
メンチュヘテプ2世第11王朝50 上下エジプトをはじめて統一
イアフメス1世第18王朝25 異民族追放し王国再統一
ホルエムホプ第18王朝 28異例の継承・譲位で王朝終焉
ラメセス2世第19王朝66 古代エジプト中興の祖
カンビュセス2世第27王朝 ペルシャ王としてエジプト初征服
ネクタネボ2世第30王朝17 エジプト人として最後のファラオ
プトレマイオス1世プトレマイオス20 プトレマイオス王朝の始祖
プトレマイオス12世プトレマイオス21 無能さ故に王朝崩壊を早めた


以上の実績から、如何に国の繁栄に貢献したかの「国力貢献度」、如何に後世に残る建造物を作ったの「建造物」、王位を継ぐに当たって血統による「正当性」、如何にエジプトの国を外敵から守り独立性を維持した彼の「独立性」の4項目で評価すると下表の結果になりました。


ファラオ名国力貢献度建造物王位正当性独立性総合評価
ナルメル
ク   フ
メンチュヘテプ2世
イアフメス1世×
ホルエムホプ ×
ラメセス2世
カンビュセス2世 ×
ネクタネボ2世× ××
プトレマイオス1世
プトレマイオス12世×× ××


予想通り、ラメセス2世が満点で最高、次いでメンチュヘテプ2世、プトレマイオス1世が続き、最低も予想通りプトレマイオス12世、次いでネクタネボ2世でした。 まさに、ラメセス2世はファラオの中のファラオでした。

前 頁 へ 目 次 へ 次 頁 へ
inserted by FC2 system