ニューヨーク・ヤンキースは今でこそ、ワールドシリーズで最多の26回の勝を果たしている最強の名門チームですが、アメリカンリーグ創設の20世紀初頭はワールドシリーズには一度も優勝したことのない、ボルチモアに本拠地をおく「ボルチモア・オリオーズ」と言う名前の弱小球団でした。(現在の同名のボルチモア・オリオーズとは関係有りません)それに引き替え、ボストン・レッドソックスは、創立こそ、このボチモア・オリオーズと同じ、1901年でしたが、1918年までの間にワールド・シリーズを5回制覇するなど、当時のMLB最強のチームでした。
その昔、米国の東海岸の三大都市はボストン、フィラデルフィア、ニューヨークで、その規模も似たようなものでした。中でもボストンは古くから港町として栄え、全米一の名門大学のハーバード大学とレッドソックスと言うの名門球団の有るボストンはむしろニューヨークよりも格上の都市でもありました。
その後ニューヨークだけが世界有数の大都市に発展していったため、1903年にボルチモア・オリオーズは本拠地をニューヨークに移し、その名もニューヨーク・ハイランダーズと改め、更にその10年後の1913年にはニューヨーク・ヤンキースと改名しててボストンと対抗するようになりましたが、優勝には到りませんでした。
ジョージ・ハーマン・ルースは、1895年2月、メリーランド州ボルチモアに生まれましたが、幼い頃は両親がパブで働いていたこともあって、親にまったく相手にされず悪童に育ってしまいました。それを危惧した両親は、ルースを矯正施設へ連れて行ったところ、ルースはその施設で野球を教わり、捕手をやっていたルースからスタートしてその能力を発揮し、投手として近隣に名前が知られるようになりました。
そして、マイナーリーグに所属して活躍し、1914年にボストン・レッドソックスへトにレードされたルースは、投手として、15、16、18年にワールドシリーズへ出場し、15年のシーズンでは18勝、16年にはシーズンで23勝、防御率は1.75という素晴らしい成績を残し、ワールドシリーズでは29回2/3を連続無失点という成績を納めました。
そして、打撃センスも抜群で、投手兼任外野手としてシーズン11本塁打を放ってホームラン王に輝き、19年には130試合に出場し、29本塁打を放つなどして、まさに投打に大活躍しレッドソックスの至宝的存在になりました。
1920年、当時レッドソックスのオーナーのハリー・フレージーは、兼業していたショービジネスの資金不足を補うために、こともあろうに、このルースを総額42万5000ドルでヤンキースにトレードしてしまったのです。
移籍した20年にはシーズン54本塁打、27年には当時不滅といわれた60本塁打の記録を作り、1935年にブレーブスにトレードされるまでの14年間のヤンキース5回(23,2,.28,32,33年)の優勝に貢献し、ヤンキース黄金時代の基礎作りに寄与しました。
レッドソックス時代は夫人と2人で平和にボストン郊外の農場で暮らしていたルースはニューヨークに来てから、昔の悪い癖が出たのか、放蕩三昧の暮らしに明け暮れ、大都会ニューヨークになじめない妻とも離婚し、やがて1948年に53歳の若さで癌で死亡しており、結果的にみればニューヨークに来てからの生活はルースにとって不幸でした。
一方、ルースを放出したレッドソックスは、1920年以降、今日までの83年間1度もワールドシリーズ優勝しておりません。阪神が18年ぶりの優勝できなかったと言いますがその比ではありません。1986年のワールドシリーズで延長10回、あとアウト1つで優勝という場面で一塁手、ビル・バックナーの痛恨のトンネルでまさかのサヨナラ負けを喫すなど、あと一歩のところまでいくのですが、まるで呪われているように不幸が付きまとっているのです。
そこで人々は、ルースの霊が自分を不幸に陥れたレッドソックスが永久に優勝出来ないように呪っているのだと噂するようになり、ルースのあだ名の「バンビーノ」をとって「バンビーノの呪い」と言うようになりました。
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