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浜名湖・館山寺温泉で同級会 藤枝で田中城跡見学

館山寺境内の観音像館山展望台から望む東名道路

移築され田中城本丸櫓(天守閣)二之堀の一部


今年の同級会(大学・専攻学科)は昨年の富山県・氷見に続いて、静岡県の浜名湖・館山寺温泉で行われることになり、東西から新幹線、在来線、マイカーで20人の同級生たちが会場のホテルに駆けつけました。実は私は静岡県生まれですが、どちらかと言えば県東部の焼津で生まれ育ったため県西部の浜松、浜名湖には馴染みが薄く、浜名湖・館山寺も今回が始めての経験でした。

静岡県は遠州灘沿いの遠江国(遠州)、駿河湾沿いの駿河国(駿州)、伊豆半島一円の伊豆国(豆州)三つの国から成っておりますが、静岡市と焼津市、岡部町に跨る赤石山系の宇津山の宇津谷峠が遠州と駿河を分けているように思います。この宇津谷峠は箱根峠、鈴鹿峠とともに東海道の三大峠として知られておりますが、広重の浮世絵でその様子を偲ぶことが出来ます。

浜名湖は元々淡水湖でしたが、江戸時代の地震による津波で遠 州灘との境が切れ、「今切口」から海水が流れ込み現在の塩水湖になったと言われておりますが、恥ずかしいことに私はこの浜名湖が日本で、琵琶湖、霞ヶ浦に続いて3番目に大きい湖とばかり思っておりましたが大間違いでした。この表に示すように10位でした。 あの北海道の洞爺湖より小さいとは今でも信じられません。北海道の地図は九州とのバランスを取るために縮小して描かれているとのことですからその影響も有るのかも知れません。

この館山寺温泉は冷泉を沸かして温泉としておりますが、温泉法で定める所定の成分を含んでおりますので温泉と言う名前を掲げることは違法ではないようですが、あの温泉特有の匂いやしっとり感は私には感じられませんでした。ホテルには一応、展望大浴場や空中露天風呂なるものが有りましたが山奥の温泉のような温泉情緒は無くただ、ひたすら風呂に浸かっていました。

館山寺温泉の名前は、この温泉街の近くにある標高50mほどの館山(たてやま)と言う山に、館弘法大師が開山した名刹で昔から観月の名所でもあった館山寺と言う曹洞宗のお寺に由来しており、山頂には優しい顔の観音像が浜名湖に向かって立っております。(左上の写真)また、館山の湖を望む展望台からは東名高速道の橋が見られました。(右上の写真)

同級会は全員で、この1年間の身の回りの出来事を紹介し、大いに飲み、語り合った後に恒例の囲碁会を部屋で開催し、午後11時半に就眠、翌朝はチェックアウト後、館山寺まで散策したり、ロープウエーに乗ったりしてからホテルのマイクロバスで弁天島まで送って頂き、ここで解散となりました。浜松駅前で名物の鰻料理を有志で食べてからそれぞれ帰路につきましたが、私は田中城跡見学のため藤枝に向かいました。)


藤枝駅に降り立ち、母校の1年先輩で田中城跡の近くにお住まいのMさんの車に乗って田中城跡を案内して頂いてから史跡田中城下屋敷事務所に出向くと、事務所長で案内役の新堀さんと田中城跡についてボランティア・ガイドをされている、母校の大先輩でもあるW先生が出迎えてくれました。

田中城については、今年の5月に母校の同窓会・役員会出席するために藤枝を訪れた際、地元在住の田中城に詳しい同窓生たちから取材してこの日記帳にアップし、雑感記に特集として纏めましましたところ、お城ファンの方々からいろいろご質問、ご指摘を頂きました。

その中で最も多かったご質問が、「田中城のような小さな平城を攻略するのに何故家康は7年も要したのか?」でした。このことについて、その後文献を調べてみたのですが判らないままでしたので、この機会にW先生や新堀さんに教えて頂くのが今回の訪問目的でした。早速、新堀さんにお訊ねしたところ、推論の域を脱しないとの断りをされながらも大変興味深く、かつ私としては納得出来る回答をして頂きました。このことは明日採り上げさせて頂くことにして、今日は田中城下屋敷について触れさせて頂きます。

史跡田中城下屋敷は、平成4年から8年にかけて田中城下屋敷跡の庭園を復元するとともに、田中城にゆかりのあった建築物が移築された田中城関連史跡で、新堀さんはここの事務所長を務められる傍ら、田中城跡のボランティアガイドもされております。

田中城の起源は室町時代に今川氏の命により、一色左衛門尉信茂が築いた徳之一色城とされております。 今川氏の最盛期には長谷川左衛門正長が城将として永禄年頃(1550頃)まで在城し、永禄12年(1569)武田信玄の駿河侵攻によりも徳之一色城も占領され、武田氏の所領となりました。

元々、武田氏の城作り戦略に円形の城郭が有ったことから、信玄は馬場美濃守に命じて直径およそ600mの全国的にも珍しい同心円的に曲輪で堀を三重に(後に六間川を利用して四重に)巡らした戦国城に大改革し、その名も田中城」と改称しました。修築後は山縣昌景、板垣信安を城主に据え、信玄亡き後、息子勝頼が家康に対抗したものの天正12年(1582)、武田家重臣の江尻城主穴山信君(梅雪)の寝返りによって、依田右徳門尉信蕃が死守していた田中城は孤立して結局、同年3月1日に無血開城し家康の所領となりました。

家康の関東転封によって豊臣領となり関ヶ原の合戦後、再び徳川領となり、西への守りとして5万石ほどの譜代大名が入れ替わり中期ごろ本多家に定着以後世襲されましたが、田中城主になるとその後幕府首脳に出世するケースが多かったことから出世城とも言われました。また、今川、武田、徳川、豊臣の名だたる戦国武将たちが所領し、居城した城はこの田中城以外に無くその意味でも珍しい城と言えます。

明治維新の際、幕府直轄領だったことから徳川三舟(勝海舟、高橋泥舟、山岡鉄舟の3人)の一人 、高橋泥舟が入城した後に、明治元(1868)年廃城となり藤枝市や民間に払い下げられました。田中城の南東隅にあたる下屋敷跡は元々は一色氏やその末裔の古沢氏の屋敷跡だとも伝えられていますが、江戸時代後期には城主や臣下の武士たちの屋敷が置かれ、築山、泉水、茶屋等も設けられて四季の景色を楽しんだとも言われております。

廃城になった時は、田中城は徳川領になってからは戦災、天災によって損傷したとの記録は有りませんので、下屋敷は勿論、本丸、城門、堀、土塁が当時のまま残っていたものと思われます。残念ながら、本丸跡は西益津小学校グランドとななり、小学校正門に史跡碑があるだけでその面影は全く有りませんが、幸いなことに本丸の天守閣に相当する物見櫓が民間に払い下げられ、つい最近まで住居として使われた後寄贈されて前述のとおり史跡田中城下屋敷に移築されました。

有名な武田流築城術の特徴と言われる馬出曲輪(三日月堀)は埋め立てられ、このように地面の凹みから僅かに偲ぶだけで、一之堀は全くその痕跡すら無く、二之堀だけがこのように水をたたえており当時を偲ぶことが出来ます。四之堀跡は見られませんがその水源に利用された六間川は今でも流れております。また、土塁は殆ど取り崩され、ここだけが僅かにその面影を残しております。


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