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攻略し難い田中城の考察 母校のサッカー応援観戦(1)

瀬戸川と田中城の位置関係城内の六間川からの引水状況

試合会場の藤枝市民グランド名物の応援傘で応援するファン


昨日は、史跡田中城下屋敷・事務所で、田中城について所長の新堀さんからいろいろと情報を頂き議論して有意義な時間を過ごした後、隣町の島田に在住の友人と島田で会食して楽しいひとときを過ごしてから焼津の実家に立ち寄り、老父母と久しぶりに夜遅くまで、オリンピックアジア予選リーグ第2戦、日本対台湾の様子をテレビで観戦しながら話しを弾ませました。

今日は、昨日新堀さんの情報に基づいて、「田中城のような小さな平城を攻略するのに何故家康は7年も要したのか?」について、私なりの結論を導いてみたいと思います。勿論、これは私の勝手な推論であることを前もってお断りしておきます。まず、徳川軍による武田軍が立て籠もる田中城攻略の戦史は次のように記録されております。

・天正 1年(1573)信玄、田中城中心に徳川勢に圧力
・天正 3年(1575)信玄没後長篠合戦で武田軍(勝頼)惨敗
・天正 3年(1575)家康、勢いに乗じ諏訪原城を陥落、田中城孤立
・天正 3年(1575)家康、松平家忠に田中城攻撃を命令
・天正 6年(1578)徳川軍の田中城攻撃本格化、勝頼、岩田山に陣城
・天正 9年(1581)武田勝頼、 江尻城主穴山信君に田中城死守指令
・天正10年(1582)信君寝返り田中城孤立し城主依田信蕃無血開城

このように、天正3年(1575)から始まった田中城攻撃は天正10年(1582)に無血開城で終わるまでの7年間に8回もも行われておりますが、一度たりとも銃火や矢を交えての正面衝突は無かったとされております。新堀さんはjその理由の一つとして田中城が守りやすい城だったからと主張されておりました。

この地域の最大の河川である瀬戸川と田中城の位置関係を示す絵図(左上の画像)を新堀さんは見せてくれました。この絵図から判りますように、田中城の城郭は瀬戸川沿いの土手と瀬戸川に並行して北側を流れる六間川沿いの土手が合わさって線状に形成された高台と北側の高台に囲まれた低地になっており、城郭一帯だけが中州のように高台になっております。

更にに新堀さんは田中城がその城郭内に如何に瀬戸川の支流である六間川から引水して三重の堀を形成しているかを示す絵図(右上の画像)を見せてくれました。この二つの絵図から、新堀さんは田中城の城郭外は低地のため敵が攻めてくると六間川から引水することでドロ沼にしたのではないかと主張するのです。

これを物語るように、徳川軍は天正4年から天正9年までの5年間は、勝頼が出てくると城郭の外まで兵を進めて武田軍と対峙するのですが、決して決戦には応じず、武田勢が引き上げるまで睨み合いを続け、敵がいなくなった後、勝頼に取り戻された地域を奪い返し、収穫の時期になると、高天神城や小山城の周辺で刈り田を行い、敵の収穫を略奪して兵糧責めと同時に農民の武田氏からの離反を画策したようです。

この作戦を、人は、「鳴かぬなら 鳴くまで待とう ホトトギス」 流の家康の忍耐強い性格によるとしておりますが、私はそれも有ると思いますが、新堀さんの言われるように六間川からの引水によるドロ沼化が徳川軍の進軍を邪魔したこと、更には背後の武田水軍による挟撃を恐れて頃を見計らって兵を引いたのではないかと私は推理します。

信玄は、甲相駿三国同盟を破棄して駿河に乱入することにより、念願の水軍を編成し、永禄13年頃(1570久能山の東北にある清水市美濃輪町に武田水軍の根拠地袋城を築城、西方の持舟城も修築し、これにも水軍を置いて、久能山城の両翼とし、これによって武田氏は駿河湾の海上権を握っていたため、徳川軍は田中城進軍の際は常に背後の武田水軍の挙動に留意せざるを得なかったものと思われます。

こうして、7年間に及ぶ行っては返すの持久戦も家康の読みどおり終わりを告げることになりました。 甲斐源氏の流れを汲み、、武田信玄から十代前の甲斐守護・武田信武の四子・善武が穴山の地に居を移して以来、穴山姓を名乗っていた穴山一族は武田家と縁の深い一族であり、江尻城主穴山信君は母は信玄の姉、妻は信玄の娘という立場でまさに武田家の重臣でした。

その穴山信君は、武田軍が北から織田軍、西から徳川軍から攻められ、兵力が甲斐、駿河、遠江に分散していることもあってこれを防ぎきれないことから武田軍の滅亡は時間の問題と悟り、また城下町として繁栄していた江尻の人々を戦火で苦しめるのに忍びない気持もあって、武田の家名を存続させることを条件に2万両の黄金を家康に支払うことで家康側につくことに同意して天正10年(1582)江尻城を徳川軍に明け渡してしまいました。

この結果、田中城は援軍、食料・物資の補給を絶たれて孤立化したところへ、家康の降伏の奨めを受け入れた田中城主の依田信蕃は同年3月1日に田中城を無血開城して徳川軍に明け渡し、家康の厚遇を受けて小諸城代となり、岩尾城攻めで戦死するもののその子孫は小諸城主として栄えたのに対し、寝返った穴山信君は同年に起こった本能寺の変で変死しているのは武田勝頼の呪いなんでしょうか。


昭和38年(1963)以降、昨年までの39年間に静岡県の高校は、全国高校サッカー選手権大会で、優勝10回、準優勝9回もしているのです。つまり、今で言うサッカー少年たちの合言葉「国立の土を踏もう」を、この39年間のほぼ半分の年に経験していることになり、全国でも静岡県だけの快挙と言えます。

この実績故に、静岡県はサッカーどころとして全国にその名を轟かせているわけです。このことはこの39年間での優勝回数で静岡県に次ぐのは埼玉県6回、東京都5回、千葉県5回であることからも裏付けられていると思います。。それが故に、全国大会で優勝するよりも静岡県で優勝して代表校になる方が難しいとも言われる所以になっております。その高校別内訳は次のとおりです。

高 校 名  優勝 準優勝 計
藤枝東高  4    2   6
清水東高  1    3   4
清水商高  3    0   3
静岡学園  1    1   2
東海大一  1    1   2
浜名高校  0    1   1
静岡工高  0    1   1
   計   10    9  19

全国高校サッカー選手権静岡大会は、まず過去1年間の実績から、特別シード校の4校が決められます。今年は、藤枝東高、静岡学園、清水東高、浜名高校でした。この特別シード校を除く123校が1次トーナメントを行いか、勝ち残ったベスト16チームがA、B、C、Dの4ブロックに分かれて2次リーグを行い各ブロック1位、2位の2校が決勝トーナメントに進み各ブロックの1位、2位が対戦し勝ち残ったチームが特別シード校と対戦する準々決勝に進みます。

今日の藤枝東高の相手校の静岡北高は、1次トーナメントで浜松西高を4:1、三島南高を6:0、伊豆中央高を4:0で破って2次リーグに進み、袋井高を2:0、浜北西高を3:2、藤枝明誠高を3:2で連破してAブロック1位となって決勝トーナメントに進み、Bブロック2位の吉田高を3:0で破って7連勝して特別シード校の藤枝東高と、今日準々決勝戦として対戦することになったわけです。

一方の藤枝東高は、平成9年(1997)に久しぶりに県大会で優勝して国立の土を踏んだものの、その後5年間は決勝トーナメントで清水商、静岡学園に阻まれて優勝を逃し続けておりました。しかし、平成10年、13年、15年は総体の県大会で優勝しておりますので、優勝する力は充分持ち続けてきているように思われます。

試合は、サッカーどころ藤枝のサッカーを育んできたものの、国体会場として新設された藤枝総合運動公園にその役割をバトンタッチしようとしている藤枝市民グランドで行われました。特別シード校のため実戦から遠ざかっていた藤枝東高は、10月に帝京、清水東、岐阜工との練習試合で負けて調子を落としていたこともあって、この試合も後に服部監督にして近来希にみる不甲斐ない戦いだったと言わせる程、前半は苦しい試合展開でした。

しかし、前半30分、このところ進境著しい1年生FWの中村祐輝が2年生MF赤星貴文のセンタリングを頭で合わせて先制、後半には気落ちした静岡北高に襲いかかって、鈴木崇、鈴木大、松下、赤星、閨谷が次々と得点し、終わってみれば6:0の楽勝でしたが前半の戦い振りはおよそシード校らしくないお粗末な内容でした。この結果、明日は藤枝総合運動公園で宿敵、清水商と準決勝を行うことになりました。   


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