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母校が高校サッカー静岡県大会優勝 東高物語(1)

決戦前の東高イレブン決勝ゴールを決めた滝口選手
 (上の画像は 「がんばれ藤枝東高」から転載させて頂きました)

藤枝東高の前身は旧制志太中学で、戦前から昭和40年代にかけて浦和と日本一を競うサッカー名門校でした。大正13年創立された時の初代校長・錦織兵三郎氏の「比較的短時間で勝敗が決まる上、精神修養によく、かつ日本では未開発競技で将来性が有る」との発想によりサッカー(当時は蹴球と言った)を校技にしたのですが、当時サッカー部を持つ学校は殆ど無い状態でしたので日本一になるのにさほど時間はかかりませんでした。

1873年(明治6年)、海軍兵学校に教師として来日していた英国海軍のA・L・ダグラス少佐が生徒にサッカーを教えたことが日本のサッカーのはじまりで、1899年(明治32年)、神戸の御影師範にようやく日本人だけのサッカーチームができました。


我が家は現在、リフォーム中のため庭が大工さんたちの仕事場になっている関係で昨晩の釣りで使用したボートや釣り具の水洗を大工さんたちが仕事を始める前にやり終えなければならないため、少し早起きして家族総動員で洗浄して何とか食事前にやり終えました。

食事後は、昨晩釣ってきたマダカ(フッコ)とアジを近所に配り終えて一段落しました。リフォームのついでに台所を更新することになりましたので、現在は台所が無く魚の料理は思うように出来ないことと、日頃から家庭菜園で獲れたた野菜などを頂いたままになっていることなどから、刺身用に残した1尾を除いて全て近所にお裾分けすることにしたのでした。

しかし、今日は朝から胸が高ぶってしかた有りませんでした。午後から母校、藤枝東高と清水東高との県立校同志の全国高校サッカー選手権静岡県大会の決勝戦がエコバ・スタジアムで行われるからです。先週は、この日記にも掲載しましたように、他の用事も兼ねて藤枝まで応援に出向き静岡北、そして宿敵清水商を連破しての決勝戦だけに、現地まで応援に駆けつけたい気持は山々でしたが所用のため出来ませんでした。

勿論、当地区ではテレビ中継は地元愛知県の東邦対東海学園で、残念ながら静岡県大会の様子をテレビやラジオで視聴することは出来ませんが、幸いにも上の画像を提供して頂いた サイトのBBSの試合速報欄でチェックできますので、まずは試合開始時刻の午後1時35分からパソコンの前に座り続けて、試合速報欄の「更新」ボタンを押し続けることにしました。

清水東高と言えば、23年前の昭和55年(1980)を思い出します。藤枝東高が選手権・静岡大会で優勝したこの年、清水東高は総体で全国優勝、翌年も連続して全国優勝、更に翌年は選手権でも全国で準優勝し翌々年の昭和57年(1982)は選手権でも初の全国優勝その翌年の昭和58年(1983)も選手権で全国準優勝とまさに清水東高は全国にその名を轟かせていました。

その昭和58年に、3人の中学生が清水東、藤枝東、静岡学園にそれぞれ入学しました。武田(修)、ゴン中山、カズの静岡三羽がらすでしたが、中でも武田はその年の全国ベスト11に選ばれ、カズが8カ月で中退して単身でブラジルのプロチーム『ジュベントス』へ留学してしまいましたので、ゴン中山は武田に強烈なライバル意識を持っていたように感じました。

そして、翌年のゴン中山2年生の時静岡県代表として国立まで行き、準決勝で島原商にPK戦で惜敗したものの大活躍し、武田を見返したのでした。しかし清水東、藤枝東ともにこの時以来全国優勝することはなく、静岡学園、東海大一、清水商が両校に代わって全国優勝を果たし全国区になっていきました。その意味で、今年の両校の対決はお互いに期するところが有ったように思います。

そんな思いに耽りながらPCの画面を見ていたら、前半終了5分ぐらい前の11時分、「藤枝東先制 得点 滝口」のメッセージが表示されたのを見て思わず拍手してしまいました。そして前半終了、後半に入ってからは同点のメッセージが表示されないことを祈りながら画面を見続けました。こうなると、何もコメントが無いのがいい知らせになりますから途中経過のコメントなど要りません。このことを察してかその後も選手交代以外はノ^コメントのまま後半終了予定時刻の午後3時5分になりましたがまだノーコメントです。

午後3時10分になってもノーコメントです。ロスタイムにしては長すぎるので、同点になって延長に入ったのではないかとか、いろいろ考えながら不安に思っていた午後3時14分、「1:0で藤枝東が勝ち優勝しました!!」の勝利を告げるメッセージが画面に踊るように表示され、思わず誰憚ることなく大歓声をあげました。 現地で観戦しながら携帯からBBSにコメントして下さった、ゆうさんには本当にお礼を申し上げます。


師範学校にサッカーが取り入れられたことで、その後、教師となって全国に散った卒業生がサッカーの普及と指導にあたるようになり、サッカーは徐々に広まっていきました。 その流れが全国に及び、静岡県では1919年(大正8年)静岡師範、浜松師範に次いで浜松高工・旧制静岡中・浜松一中の後に志太中に蹴球部が誕生し、1931年(昭和6年)志太中が全国中等学校蹴球大会に初出場初優勝を飾りました。

藤枝東高になってから黄金期を築きあげたのは同校の国語教師でもあった長池實監督です。彼はは昭和38年の第41回全国高校サッカー選手権大会において藤枝東高を優勝に導いて以来、実に計8回の全国大会優勝を成し遂げた名監督で、サッカー理論の名著も著し日本サッカーの指導者として嘱望されながらも昭和62年4月、肝臓疾患のため55歳の若さで不帰の客になられました。

彼が友人宅に寄宿していた関係で、彼とよく麻雀をする機会がありましたが国語の先生の割には論理的で物静かながらも内に闘志を秘めたところがあるナイスガイでした。その彼が藤枝東高の監督を辞めてから、藤枝東高は全国大会の優勝から遠ざかり、代わりに台頭した同じ静岡県の清水4人衆(清水商、清水東、静岡学園、東海大一高)に県内王座を明け渡し、1981年以降県代表になったのはゴン中山2年生の時の1984年と1997年の2回しかありませんが、その間に清水勢は22回(清水商9、静岡学園6、清水東5、東海大一高2)も代表になり、そのうち6回も全国優勝してサッカー王国清水を誇っております。

高校時代、体育の時間が嫌でした。サッカーが校技ですから体育の時間はクラスを2チームに分けてサッカーの試合をするのですが、足が遅い上、運動神経の鈍い私はボールに触らせてももらえなかったので退屈でしかたなかったのです。しかし、それでも球を追っかけないとサボタージュとして単位がもらえなくなるので辛かったのです。チーム内にはサッカー部員が5、6人おりますので殆どの時間帯、彼等がボールを支配しておりましたが、審判がいないのも同然ですのでオフサイドはフリーでしたから滅茶苦茶の得点争いになったように記憶しております。

以上は、本サイトの2002年05月27日の日記を改題して再掲しました。、今後は随時、藤枝東高のサッカーについて「東高物語」としてシリーズ化していきたいと思います。


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