−日記帳(N0.1308)2005年07月10日− −日記帳(N0.1309)2005年07月11日−
X線天文衛星打ち上げ成功
東条元首相のお孫さんの話から


「すざく」搭載M6号機の打ち上げ風景

X線と言うと、特殊な放射線と思っておられる方が多いと思いますが、我々が住んでいる空間に飛び回っている、ラジオ、テレビのアンテナに入ってくる電波、携帯、パソコンに出入りする電波、更に言うならば目に見える可視光線と同じ電磁波の仲間ですからその意味では特殊ではありません。何が違うかと言えばその波長が、例えば可視光線の数千分の一というように短いだけです。

波長が短くなるとエネルギーが大きくなりますので、物体を透過するようになります。質量の小さい物体ほどよく透過しますので、これを利用して身体の内部を調べることが出来ます。骨の主成分のカルシウムの質量を表す原子量は40で、筋肉、内臓、皮膚、血液などの有機物の主成分の炭素の原子量12より大きいのでX線は有機物より透過しにくいので白っぽく、有機物は黒っぽく写ることから骨の輪郭を識別できるようになります。

そして、長い間我々は自然のX線は存在しないと思っておりましたが、あることからそうではないことが判りました。ナチスドイツによって開発されロンドン空襲にも使われた「V2ロケット」を、戦後、米国が押収して成層圏まで飛ばして科学観測した後回収して調べたところ、X線の照射を受けた形跡が判明したのです。実はこの時、検出されたのは太陽コロナが発する強いX線でしたが地球取り巻く厚い空気の層に遮られてX線は地上まで到達していなかったのでその存在が確認できなかったのでした。

その後、よくよく調べていくと、太陽だけでなく宇宙の彼方からいろいろなX線が発しられていることが判明し、ここにX線天文学という新しい学問が誕生しました。イタリア生まれの米国人、リカルド・ジャッコーニ博士(73)は1962年にX線観測用ロケットを打ち上げ、世界ではじめて太陽系の外から発せられた非常に強いX線を発見し、以後、X線観測を通じ、ブラックホールや中性子星などの存在を明らかにし、X線天文学という新しい分野を開拓し、2002年日本の小柴昌俊東大名誉教授と同時にノーベル物理学賞を受賞しましたので、ご存知の方も多いことと思います。小柴昌俊名誉教授の場合は、超新星爆発などの際に発せられるニュートリノ、ジャッコーニ博士の場合はX線、いずれも宇宙の彼方から飛来する高エネルギー粒子を研究対象とする高エネルギー粒子天文学で共通していることから共同受賞となったわけです。

そして、興味深いことに、X線天文学の研究家艇で「ブラックホール」という世にも不思議なものが有ることが判明し、これを研究することで宇宙の進化、太陽系の起源などの解明に役立つことが判ってきました。特に、日本は宇宙X線の観測分野では世界の最先端をいっており、1979年の「はくちょう」を手始めに、「てんま」(1983)、「ぎんが」(1987)、「あすか」(1993)というX線観測衛星が、次々と打ち上げられ、打ち上げのたびに検出感度が向上し、「はくちょう」の感度を1とすると、「てんま」はその10倍、「ぎんが」は200倍、そして「あすか」は5000倍にも達しております。

その「あすか」も2001年3月に大気圏に突入して消滅しましたので、2000年2月に、その代替衛星のアストロEをM4号機に搭載して打ち上げたのですが失敗し、この間日本のX線観測衛星に空白が生じていました。そこで、宇宙開発機構(JAXA)は、アストロEの代替衛星アストロE2を改良したMロケット6号機に搭載して、今日の正午すぎに、鹿児島県肝付町の内之浦宇宙空間観測所から打ち上げられ、見事に成功し、所定の軌道に乗った後、衛星が正常に分離されたことが確認されたことからアストロE2は「すざく」と命名されました。 「すざく」は国内5基目のX線天文衛星で全長6.5m、胴体の幅1.9m、重さ1.7トンで、費用は157億円(衛星開発費87億円、ロケット・打ち上げ費用70億円)でした。衛星自体の推進装置で3日後に予定軌道に達し、その後、各観測装置の動作を確認し、約1カ月後に試験観測を始める予定。


昨日、普段は殆ど見ないテレ朝の「サンデープロジェクト」にチェンネルを切り替えて驚きました。東条英機元首相の孫、東条由布子さんが出演しておられ、声高に「東條はもはや戦犯ではありません。」と述べておられたからです。確かに、昭和28年の国会決議(戦犯赦免に関する決議)により、戦犯は存在しないことは事実と思いますが、だからと言って戦争犯罪の罪を犯した元戦犯の方々の罪が消えるわけではありませんから、戦犯ではないことを強調する意味は無いと思ったからです。

東条英機元首相の戦争犯罪については、私には未だによく判らないところが有ります。しかし、軍部の実権を掌握して開戦を決定したキーマンであったこと、昭和天皇に信任され首相となり、内務大臣、陸軍大臣、参謀長を兼任して独裁的権限を握ったことも事実で、結果として日本を不幸な戦争に巻き込んだ責任は免れないと思います。

特に、彼の戦陣訓の中の「生きて虜囚の辱めを受けず,死して罪禍の汚名を残すこと勿れ」によって、どれだけ多くの日本の民間人たちがこの言葉が呪縛のようになって自決の道を選んで尊い命を落としたかを思い、そのご遺族の方々のことを思うと、東条由布子さんの開き直ったようなこの言葉はご遺族の方々への配慮に欠けたものとしか私には思えませんでした。

番組では、私と同様に由布子さんの言葉に反感をかんじたのでしょうか、司会者は「しかし、貴方のお爺さんは、開戦を決定したのです。その責任をどう考えますか。」と由布子さんに訊ねました。さすがに、この言葉に返す言葉も無く、「確かに私の祖父は開戦を決定しました。その事は深く反省しています。」と答えておりましたが、この司会者の無神経にして歴史認識の甘さに憤りすら感じました。

由布子さんは、戦前でも兄と二人で各地の学校を転々としたそうです。信じられないことでは有りますが、東条英機の孫であると解ると、小学校の先生は教室に入れてくれなかったのがその理由とのことでした。終戦後はもっと悲惨な目に遭い、東条英機の家族であると解ると配給米も売ってくれないと言うのです。配給米を手に入れるために遠く離れた町まで米をお父さんが買いにいったと由布子さんは述懐しておられました。

東条英機元首相が開戦を決定したキーマンであったことは事実ですが、それを、以上のように戦後逆境に耐えて生き延びてこられた、その意味では戦争被害者でもある由布子さんに、祖父を一方的に戦争犯罪者と見做してのその罪を問うこの質問は場違いであるとしか思えなかったからです。むしろ、戦犯でないことを強調しすぎると、上述のように「お爺さんが残された戦陣訓が重石になって自決されて方々のご遺族の思いも察して言葉使いに注意されるように」とアドバイスすることに留めるべきではなかったのではと思いました。

私も、小さいときから、東条英機元首相が天皇に開戦を上奏し、敗戦直後の昭和20年(1945年)9月10日に東京・世田谷の自宅でピストルで自決を図った時もわざと急所を外して生き延び、極東裁判では自らの罪を免れるために釈明に終始したものと思っていました。しかし、その後関連する資料を調べてみると、必ずしもそうではないことを私なりに理解するようになりました。戦争責任の所在は、天皇責任論がタブー視されるため、どうしても真実が公表されないまま今日に至っているように思えてなりません。

以下の文章は、東条英機元首相が極東軍事裁判で述べた言葉です。私には彼が自分の罪をか少しでも軽くするために述べたのではなく、この戦争を、勝者、敗者の立場からではなく公平に第三者の立場から堂々と述べ、将来の日本の国益に思いをはせた言葉と改めて思い直しました。


「・・・・戦時の不法残虐行為は痛憤すべきことだが、連合国といえども無罪というわけにはいかない。日本人が犯した犯罪は裁かれるのは当然だが、文明と人道、法と正義は同時に同じ罪を犯した連合国の人への裁判を要求するものである。・・・かつて日本軍が南京を爆撃した際、米国は”法と人道の原則に反する言語道断の行為”と痛烈に非難した。では、その後、米空軍が日本の都市に行った絨毯爆撃、とくに原子爆弾による爆撃は、報復の範囲をはるかに超えた未曾有の暴虐行為であるといわざるを得ない。それなのに文明と人道の原則を東京裁判の法基準にすると主張することは、とうてい承服できるものではない。 ・・・・・」

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