−日記帳(N0.1338)2005年08月09日−
長崎への原爆投下を糾弾する(1)
−日記帳(N0.1339)2005年08月10日−
長崎への原爆投下を糾弾する(2)


戦後、日本に投下された2発の原爆についての情報が米国側から公開されておりますが、何故長崎に2発目が1発目の広島投下から僅か3日の後に投下されたかについては正確な情報は公開されておりません。米国側は、原爆投下の目的を原爆の威力を日本の指導者たちに知らしめることにより戦争終結を早めて、より多くの人たちの命を救うことにあったとしております。

もし、それが事実ならば、1発目の広島投下による被害の調査を通して日本側が原爆の威力を確認する間もない3日後に2発目を長崎に投下して14万余の市民を殺傷した事実をどう説明するのか。1発目が広島に投下された時点で、日本の敗北は時間の問題だったことは連合国側は承知していたはずです。従って1945年7月26日に日本側に降伏を勧告していたポツダム宣言の受諾を、広島への原爆投下後に日本側に迫り、もし受諾しないなら2発目を期限を明示して投下すると警告して、日本側にしばしの時間を与えるべきだったのではないでしょうか。2日間はあまりにも短かく、せめて1週間、時間が有ったら長崎の悲劇は起こらなかったはずで悔やまれてなりません。

確かに、日本側は長崎投下の翌日の1945年8月10日にポツダム宣言の受諾を連合国側に通知しており、あたかも長崎投下が引き金になったような印象を与えておりますが、実際は長崎投下の8月9日にソ連が日ソ不可侵条約を一方的に破棄して対日宣戦布告したのが引き金になり、長崎の被害状況を把握してないタイミングでの御前会議でポツダム宣言受諾を決め、翌日の8月10日に連合国側に通知しております。従って、戦争終結を早めるのに長崎投下が寄与したとの米国側の見解は甚だ疑問で、もし後世、公正な裁判の立場で長崎投下の罪を国際的に問うならば、長崎投下を命じたトルーマン大統領等は戦争犯罪人として裁かれるものと思います。

昨年9月に公開された米国のドキュメンタリー映画「Fog of War」で、主人公のケネディ・ジョンソン政権の国防長官で米国の軍部の中枢にあったマクナマラ氏が、広島、長崎への原爆投下について、実際に原爆投下を指揮した上官のルメイ少将を名指しして、「勝ったから許されるのか? 私もルメイも戦争犯罪を行ったんだ。」とインタビューに答えるシーンが有ります。このようにアメリカ人の中にも原爆投下を犯罪として認めるような発言をする人もおりますが、そのことを追求されると、マクナマラ氏のように「大統領が決定した政策の実行を助けただけだ」と自らの責任を認めず、現在でも半数以上のアメリカ人は原爆投下は犠牲者を最小限にとどめるための適切な手段だった」と考えております。

伊藤一長・長崎市長は今日の第60回原爆記念式典での「長崎平和宣言」で、核抑止力に固執する核保有国の姿勢に対する憤りを強く表明し、昨年に続いて米国の市民に核兵器廃絶に向けた連携を呼び掛けております。このように、二度と広島、長崎の悲劇を繰り返すことの」ないように、全世界に向けて訴えていくことは広島や長崎の市長さんだけでなく、日本政府の責務と思います。式典に参列した小泉首相から、このような訴えが無かったのは残念でなりません。伊藤一長・長崎市長の「長崎平和宣言」を原文のまま以下に掲載させて頂きました。


               「長崎平和宣言:2005」

一九四五年八月九日午前十一時二分、米軍機から投下された一発の原子爆弾は、この空でさく裂し、一瞬にして長崎のまちを破壊しました。死者七万四千人。負傷者七万五千人。何も分からないまま死んでいった人々。水を求めながら息絶えた人々。黒焦げになり泣くこともできないで目を閉じた幼子たち。辛うじて死を免れた人々も、心と身体に癒やすことのできない深い傷を負い、今なお原爆後障害に苦しみ、死の恐怖におびえています。

核保有国の指導者の皆さん。いかなる理由があっても核兵器は使われてはなりません。そのことを私たちは身をもって知っています。六十年間、私たちは、「ノーモア・ヒロシマ」「ノーモア・ナガサキ」を訴えてきました。国際社会も、核実験の禁止や非核兵器地帯の創設に努力し、二〇〇〇年には、核保有国も核兵器の廃絶を明確に約束したではありませんか。

それにもかかわらず、今年五月、国連本部で開かれた核不拡散条約再検討会議は、核兵器拡散の危機的状況にありながら、何の進展もなく閉幕しました。核保有国、中でもアメリカは、国際的な取り決めを無視し、核抑止力に固執する姿勢を変えようとはしませんでした。世界の人々の願いが踏みにじられたことに、私たちは強い憤りを覚えます。

アメリカ市民の皆さん。私たちはあなた方が抱えている怒りと不安を知っています。9・11の同時多発テロによる恐怖の記憶を、今でも引きずっていることを。しかし、一万発もの核兵器を保有し、臨界前核実験を繰り返し、そのうえ新たな小型核兵器まで開発しようとする政府の政策が、本当にあなた方に平安をもたらすでしょうか。私たちは、あなた方の大多数が、心の中では核兵器廃絶を願っていることを知っています。同じ願いを持つ世界の人々と手を携え、核兵器のない平和な世界を、ともに目指そうではありませんか。

日本政府に求めます。わが国は、先の戦争を深く反省し、政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こらないようにすることを、決意したはずです。この憲法の平和理念を守り、被爆国として、核兵器を「持たない」「作らない」「持ち込ませない」とする非核三原則を、直ちに法制化するべきです。今、関係国が努力している朝鮮半島の非核化と、日本の非核三原則が結び付くことによって、北東アジアの非核兵器地帯化の道が開けます。「核の傘」に頼らない姿勢を示し、核兵器廃絶への指導的役割を果たしてください。

さらに日本政府に求めます。被爆者はすでに高齢に達しています。海外の被爆者にも十分な援護の手を差し伸べるとともに、被爆体験による心の傷がもとで苦しんでいる人たちの支援も充実してください。 長崎では、多くの若者が原爆や平和について学び、自ら活動に取り組んでいます。若い世代の皆さん。原子爆弾によって無念の死を遂げた人々に、深く思いを巡らせてください。一人一人が真摯(しんし)に過去の歴史に学び、平和の大切さや命の尊さについて考えてみてください。長崎市民は、皆さんの平和への取り組みを支援します。世界の市民やNGOと手を結び、ともに平和の鐘を長崎の空から高らかに響かせようではありませんか。

被爆六十周年を迎えた今、原子爆弾で亡くなられた方々の御霊(みたま)の平安を祈り、私たちは、広島とともに、核兵器廃絶と世界恒久平和に向けて、決してあきらめることなく努力することを宣言します。

  2005年(平成17年)8月9日 長崎市長  伊藤 一長


昨日は、広島への投下の僅か3日後に長崎へ投下されたことから原爆の威力を日本側に認識させることで戦争終結を早めたとの米国側の説明の矛盾点を突くことで長崎へ投下を犯罪行為として糾弾しましたが、今日は別の観点から糾弾してみたいと思います。

米国は当初、原爆投下の第一候補都市を京都、広島とし、それぞれの予備として小倉、新潟の二都市を考えていましたが、京都を反対する意見が出たため断念し、広島、小倉を第一候補都市とし、予備として長崎を追加しました。従って、まず広島を投下目標とし天候不順等で投下困難になった場合は新潟に、小倉が投下困難になった場合は長崎に変更することにしておりました。そして、8月6日の広島への投下に支障は無かったので予定通り投下し、8月9日の小倉への投下に際しては前日の空爆によろ硝煙が市街の上空に漂って視界が悪かったため断念し、長崎に変更したのでした。

原爆の威力を日本の指導者たちに知らしめて戦争終結を早めるには1発で充分なのに、以上の目標設定の経緯からから考えて、米国は2発ペアで投下することを最初から計画していたことは明らかです。このように、2発ペアで投下することを意図したのは次のような事情が有ったものと思います。

実は米国がテニアン島に運び込んだ2発の原爆は製造方法が異なるものでした。広島に投下したのはウラン型、長崎に投下したのはプルトニウム型でした。ある程度以上に純度を高めた濃縮ウラン235はある重量以上(=臨界量)になると自動的に連鎖反応による核分裂が一気に起こって爆発することを利用したのがこのこウラン型原爆です。1999年に東海村のJCOで作業員が濃縮ウランを分けて調合すべきところを分けずに調合したため臨界量に達したため連鎖反応による緩やかな核分裂が起こり大事件になったことから、臨界の意味がよく知られるようになりました。

弾丸のケースの中に臨界量以上の濃縮ウランを小分けして詰めておき信管によって起爆させると小分けされた濃縮ウランが混合・合体して臨界量を超えることで一気に核爆発を起こすウラン型原爆は起爆メカニズムが簡単なため事前の実験を行なわずに広島に投下したのでした。ところが、プルトニウム239は臨界に達すると直ちに核分裂を起こすのですがその際、まだ核分裂していない他のプルトニウム239をバラバラに飛散させて連鎖反応を停止させてしまうため、「未熟核爆発」と言う現象を起こし、ウラン型の場合のように臨界量以下のウラン235を二つに小分けして爆薬の力で合体させることで一気に爆発させることが出来ません。

一気に核爆発を起こすには、プルトニウム239全体を一瞬のうちに均一に圧縮して超臨界の状態にする必要が有り、そのために1943年に実験物理学者ネッダーマイヤーが提案していた「爆縮式」というアイディアが浮上しました。これはプルトニウムの周囲に火薬を均一に配置しその爆発力で圧縮する方式で、当初はプルトニウムの変形の問題等で困難視されましたが、理論的計算を元に火薬の爆発による衝撃波をプルトニウムに集める「衝撃波レンズ」の技法が開発されこの問題が解決されたのでした。

しかし、このメカニズムが予想通りに作動するか否かはどうしても実際の爆弾で試験する必要があり、1945年7月16日、史上初めての「トリニティ」と名付けられたプルトニウム型原爆がニューメキシコ州の砂漠で実験され爆縮式が予想以上に効果的であることが確認されました。 2発作られたプルトニウム型原爆の一つはこの実験に供し、残りの一つを小倉に投下してその威力を広島に投下したウラン型と比較することを意図していたものと思われます。そのため、長崎に投下されたプルトニウム型原爆は「リトルボーイ」と名付けられたウラン型と異なり、「ファットマン」と名付けられたようにズングリとした形をしておりました。それは、この爆縮装置が場所を占める事情によるものでした。

戦争による犠牲者を最小限に抑えるために原爆を投下したとの米国側のその後の説明は、以上の当時の事情から考えると事実ではなく隠れ蓑に過ぎないと思われます。もし、日米の立場が逆になって日本が戦勝していたら、間違いなく原爆投下を命令したトルーマン元大統領、投下を指揮したルメイ少将は戦争犯罪人として処刑されていたと思われます。以は東條英機元首相が極東裁判での陳述書の一部です。

「・・・米空軍が日本の都市に行った絨毯爆撃、とくに原子爆弾による爆撃は、報復の範囲をはるかに超えた未曾有の暴虐行為であるといわざるを得ない。それなのに文明と人道の原則を東京裁判の法基準にすると主張することは、とうてい承服できるものではない。 ・・・」


前 頁 へ 目 次 へ 次 頁 へ
inserted by FC2 system