−日記帳(N0.1352)2005年08月23日−
離陸しか出来ない滑走路の話
(知多の史跡を訪ねて(1))
−日記帳(N0.1353)2005年08月24日−
水上飛行機の滑走路の話
(知多の史跡を訪ねて(2))


旧日本海軍の名機「天山」の雄姿

私の自宅から2kmほどのところの田んぼの中に妙に幅の広い直線道路が有ります。その理由が判らずじまいだったのですが、最近地元の中日新聞の終戦特集記事を読んで漸くその理由が判りました。実はその道路は戦時中に使われていた飛行機の滑走路だったのです。

戦前、中島飛行機(現在の富士重工の前身)と言う日本有数の飛行機メーカーが有りました。この会社は群馬県太田市などに工場を持っていたのですが、当時戦闘機の増産が国策として採られたため1945年4月に国有化されました。その半田工場で1943年からゼロ戦とともに名機と云われた海軍の海上攻撃機「天山」海上偵察機「彩雲」の生産が行なわれておりました。

当初計画は総面積約200万坪と壮大だったのですが、終戦までに建設されたのは工場が計画の40%、滑走路は2,500m、1,800mの2本の計画に対して完成したのは800m 1本だけでした。しかもこの滑走路の海側の防波堤が着陸の際に邪魔するため離陸は出来るものの着陸は出来なかったのです。そこで、ここで完成した「天山」977機、「彩雲」427機が数十キロ離れた岡崎の海軍航空隊に飛び立っていきました。

終戦後、滑走路は米軍によって爆破され農地や住宅地にんりましたが、その一部が幅広の直線道路としてその面影を残しております。また、工場は、トレーラーの製造大手の富士重工の子会社の輸送機工業となっております。そして、ここで2008年就航予定の米ボーイング次期旅客機787の翼の一部を製作して名古屋の三菱重工大江製作所に自社製のトレーラーで運び、三菱重工がこれを組み立てて専用道路を経由中部国際空港に運びここから専用機で米シアトル」まで空輸するという壮大なプロジェクトの一翼をかっての飛行機工場が担うことになっております。

そのボーイング社のB29によって空爆を受けて破壊されたこの工場が、同じボーイング社の旅客機の部材を製造することになったことに歴史の流れと平和の有り難さを感じます。


水上飛行機を海上に誘導するためのスロープの跡

秋が深まっていくと、知多半島東岸の三河湾沿いの浅い海底にいたハゼたちは深場へと落ちていきます。その出発点となるのが知多半島東岸のほぼ中央に位置する河和港沖です。河和は名古屋駅を始点とする名鉄河和線の終点の駅の有るところです。私の船釣りはこの河和港沖のハゼ釣りで竿収めとなります。その河和港の南隣に、上の写真のようにコンクリート製の石積みが敷かれた場所が有ります。私のハゼ釣りのポイントはこの石積みの沖合い約200mの辺りです。最盛期には20cmクラスの大ハゼが100匹ほど釣れることが有ります。

我々の釣り仲間たちは、ここを「滑走路」と呼んでおりますが、実は滑走路ではなく、海軍の水上飛行機を海上に誘導するためのスロープなのです。昭和16年に海軍航空隊強化のため追浜(横須賀)海軍航空隊知多分遣隊を組織し、この滑走路と呼ばれる地域の愛知県美浜町古布、矢梨、浦戸の耕地・宅地等約180町歩が買い上げられて水上飛行機の基地が建設され、昭和18年には、整備員の養成のための河和第1航空隊が、翌年4月には水上機搭乗員の養成のための河和第2航空隊が設置されました。

そして、現在の河和漁港の右隣に、水上飛行機を海上に誘導するためのスロープ(傾斜地)が作られ、それが今でもコンクリート製の石積みとして残っているため滑走路と呼ばれるようになったわけです。波浪をまともに受けるため石積みが年々崩れておりますので、いずれは原型を留めないほどに崩壊してしまうことが懸念されます。この石積みは干満によって海中に没してしまいますので天然の牡蠣の生育場として知られ、1月になると牡蠣を拾う人たちが散見されます。全国的にも数少ない戦争史跡ですので何らかの方法で保管して欲しいものです。


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