−日記帳(N0.1361)2005年08月31日−
世界ボート選手権に思う
−日記帳(N0.1362)2005年09月01日−
「琵琶湖周航の歌」に思う


世界ボート選手権会場の長良川国際レガッタコース

現在、アジア地域で初の世界ボート選手権が岐阜県・海津市などで行なわれておりますが、日本がボート競技ではあまり強くないためなのか、テレビのスポーツ番組で取上げられることは殆んどなく、地元の新聞で報道される程度です。日本は周囲を海に囲まれ、河川も豊富に流れ、湖も各地に有りますので、ヨットやボートなどの競技ががもっと盛んに行なわれてもよさそうですが欧米に較べてその競技人口はお話にならないくらい少ないようです。

競技人口少ないということはその母体となるレジャーボートを含むボート人口が少ないことを意味します。勿論、スカル、ナックルフォア、クオドルプル、スウィープ、エイトのようなボート競技は釣り船、ヨットを主体とするレジャーボートの延長線上にはなく、高校、大学、会社のボート部を起点とはしてますが、レジャーボートに乗った経験がボート部に入るきっかけになることも考えられますので、ボート競技人口の母体はボート人口とみてよいと思います。

日本のボート人口が欧米各国に較べて少ないのは次の事情によるものと考えられます。

1.船外機付きボートには船検・免許が必要
2.単位海岸線当たりのボート人口が多過ぎる
3.ボートの係留費用が高価

船外機付きのボートを操縦するには、車検に相当する船検と車の免許証に相当する海技免状が必要でしたが、2年前の法改正で長さ3m未満のボートで船外機の馬力が2馬力未満なら、船検、免許とも不要となりました。しかし、これはボート人口全体からみれば微々たるもので殆んどのボートの操縦には船検・免許が必要で、ボート人口の拡大を妨げる最大の要因になっております。

日本は島国で、いりくんだ海岸も多いので、海岸線の総延長は世界有数ですが、自然海岸が1/3程度しかなく、ボートを楽しめる単位海岸線当たりのボート人口が多過ぎます。港や産業コンビナートでは大型船の往来が激しくて危険なためボートを出せない事情が有ります。

そして、ボートを出せるとしても、日本では勝手に河川や港湾の岸壁に係留することは出来ません。車に車庫が要るのと同じことです。漁協や私設マリーナに有料で係留権を購入することになりますが、それが高価なため庶民の経済力では係留は容易ではありません。私も釣り友も、船検、免許は持っておりますが係留権を持っていないため、組立て式のボートと船外機を車に積んで船釣りを楽しんでおります。ロサンゼルスのサンタモニカに行った時、無数のボートやヨットが係留されている風景、ニュージーランドに行った時、海岸近くの殆んどの家の庭にボートが置かれている風景を見て羨ましく思ったものでした。


琵琶湖周航の歌の4番に出てくる竹生島

            旧制第三高等学校・ボート部歌
          琵琶湖周航の歌

                   作詞:小口太郎
                   原曲:吉田千秋

1 われは湖の子さすらいの  2 松は緑に  砂白き
  旅にしあればしみじみと      雄松が里の  乙女子は
  のぼる狭霧やさざなみの      赤い椿の    森蔭に
  志賀の都よ いざさらば      果かない恋に泣くとかや

3 浪のまにまに 漂えば     4 瑠璃の花園 珊瑚の宮
  赤い泊火     懐かしみ    古い伝えの 竹生島
  行方定めぬ  浪枕     仏の御手に 抱かれて
  今日は今津か 長浜か     眠れ乙女子 安らけく
 

5 矢の根は深く 埋もれて   6 西国十番 長命寺
  夏草しげき   堀のあと      汚れの現世遠く去りて
  古城にひとり 佇めば        黄金の波に いざ漕がん
  比良も伊吹も 夢のごと     語れ我が友 熱き心
昨日、ボートを話題にしましたが、ボートで思い出すのは「琵琶湖周航の歌」です。この歌は旧制第三高等学校のボート部の歌で、現在の京都大学の校歌のひとつでもあります。私が小学生だった頃、旧制高校出身の伯父さんが口ずさんでいたのを聞いて覚えてしまいました。そして、高校に自転車で瀬戸川の堤防道路沿いに通学した時、川面を琵琶湖にみたてて口ずさみながらペダルを踏んだものでした。

大学生活をしていた時、寮で友人たちと飲んで語りそして歌うことがよく有りましたが当時はカラオケが有りませんでしたので、旧制高校の寮歌を歌うのが定番になっており、中でもこの「琵琶湖周航の歌」が最も人気が有りました。

大正6年(1917)6月、旧制第三高等学校ボート部が恒例の琵琶湖一周クルーズに出た折に宿泊先の今津湖畔の宿で、三高生でクルーの一人だった小口太郎が自作の歌を、当時全国的に流行していた『ひつじ草』という歌のメロディーに合わせて歌ったところ、みんなから拍手喝采を浴び、以後ボート部の歌となり、いつの間にか寮歌として歌い継がれやがて全国に広まっていったのでした。

つい最近までは、作詞、作曲とも小口太郎となっておりましたが、ある熱心な研究者の調査で原曲の『ひつじ草』は大正4年(1915)に雑誌『音楽界』8月号に発表された東京農業大学出身の吉田千秋という青年の作曲と判明したため訂正されております。この二人は生涯一度も顔を合わせることなく若くして亡くなっておりますが、哀調を帯びたワルツ調のメロディーに歌詞がピッタリと合っているところに小口太郎の優れた感性を感じます。

小口太郎は三高から東京帝大理学部に進み、在学中に「有線及び無線多重電信電話法」を発明、その特許は8カ国で認可を受け、卒業後は東大航空研究所に勤務したが大正13年に26歳の若さで、作詞者の吉田千秋と同じ肺結核で千秋の死後5年後に、その後を追うかのように亡くなりました。指導教官の寺田寅彦教授は「まことにめずらしい有為の材をいだかれて御早世なさいましたことは、われわれにとっても痛恨のいたり……」とその死を惜しんでおります。

また、小口太郎より2歳年上の吉田千秋は、帝大など一線を画して独学で日本の地誌や歴史研究をし、5000ページにも及ぶ「大日本地名辞書」を編纂した吉田東伍の次男として生まれ、府立四中を経て東京農大に入学しながら、肺結核のため2年後には退学し、大正8年(1919年)に24歳の若さで 亡くなりました。豊かな才能と感性に恵まれた若者が2人とも早々に世を去ってしまったのはまことに残念なことです。

長命寺は、西国三十一番札所ですが、何故か小口太郎は4番の歌詞で「西国十番 長命寺・・」としております。その理由は未だに謎のままで判っておりません。長命寺のことをよく知っている人がこの歌を歌えばすぐに間違いに気付くはずなのにその後も訂正されなかったのには何か理由が有るように思われます。

「琵琶湖周航の歌」と」よく混同される歌に「琵琶湖哀歌」と「七里ヶ浜の哀歌」があります。「琵琶湖哀歌」は、1941年に琵琶湖の萩ノ浜沖で遭難した旧制四高のボート部員を悼んで、後に東海林太郎と小笠原美都子の歌でレコードになりました。「七里ヶ浜の哀歌」は明治43年1月23日の昼下がり、神奈川県の七里ヶ浜の沖合で逗子開成中学校の生徒ら12名が乗ったボートが転覆し、全員が死亡するという事故を悼んで当時中学校の近くに住んでいた鎌倉女学校の教師三角錫子が作詞し、アメリカの作曲家インガルスの『When we arrive at home』の曲にのせて、事故の翌月「真白き富士の根・・・・」と女学生たちが歌い上げてから全国に波及していきました。この3曲はワルツ調の哀調をこめたメロディーでよく似ております。

大正6年(1917)に出来た「琵琶湖周航の歌」は現在でもカラオケでよく歌われておりますので、実に90年近い歴史を持っており、恐らくカラオケ曲では最古のもの思われます。やはり、いい歌は何時までも歌い継がれていくものですね。


前 頁 へ 目 次 へ 次 頁 へ
inserted by FC2 system