−日記帳(N0.1363)2005年09月02日−
ベトナム、カンボジアへの旅へ
−日記帳(N0.1364)2005年09月03日−
カンボジアの歴史


今回の旅行の経路
(ホーチミン経由ハノイ入り後カンボジア(シェムリアップ)に入国)

来週月曜日の9/5から9/12(月)までの8日間、ベトナム、カンボジアの旅に出掛けます。衆院選挙、大型台風接近のこの時期に敢えて雨季のこの地域への旅行を計画したのは、かねてより物色していた ホーチミン、ハノイ、アンコールワットの3ケ所を訪ねる格安ツアーがたまたまこの時期に重なったという事情が有ります。

米国、中国はベトナムと戦争して結局、粘り強くゲリラ戦法で戦い抜くベトナム軍に対抗できず撤退を余儀なくされ、ベトナム戦争、中越戦争は終結しました。このように撤退を余儀なくされたことをもって敗戦とするならば、ベトナムは米国、中国という超大国に戦勝した世界で唯一の民族ということになります。

カンボジアの歴史を紐解いてみますと、その悲惨な歴史に胸が傷んで来ます。建国の頃はジャワや中国からの侵略を受け、散々苦労して自分たちの国を作ったのも束の間、隣国のタイから長年にわたって侵略を受け、ベトナムに助けを求めると逆に両国から干渉を受け、困ってフランスに助けを求めたらその代償として植民地化され、日本軍の進出でフランスから開放されたのも束の間、日本の敗戦で再びフランスの支配を受け、国際世論の後押しで独立を勝ち得たもののベトナム戦争の煽りを受けて米国に空爆され、ベトナムに侵攻されて国土は荒れ果て、戦争終結後は、ロン・ノル派、シアヌーク派、ポル・ポト派による三つ巴の内戦が21年間も続き、特にポル・ポト政権時代にはカンボジア全人口の1/3から1/4に相当する数百万の国民が虐殺されるという悲惨な歴史を経て現在に至っております。

私は、このような両国の歴史を振り返る時、米国、中国に戦勝したベトナムの人たち、カンボジアの悲惨な歴史の中で短かったものの唯一華やかな時代だったアンコール王朝を偲ぶアンコールワットに並々ならぬ興味を持つようになり、両国への旅の機会をうかがってきました。そして、今回漸くその願いが叶うことになりました。私には、これといった有形の財産は有りませんが、せめてこころには無形の財産を持ちたいと思い、自然そして人類が世界中に残してくれた自然、文化遺産をより多く観ることでその感動を思い出に変えてこころの財産にしておきたいと願い、少なくとも年に2回の海外旅行を心がけており、今回は今年2月のトルコ旅行に次いで2回目の海外旅行になります。

今回の旅行のネックは、カンボジア入国にビザが要ること、ベトナムのハノイへの日本からの直行便が無いことでした。そのため、パスポートを3ケ月前に旅行代理店に郵送して取得してもらい、中部国際空港からホーチミン、経由ハノイ行きのツアーを選びました。 その関係で、旅行の経路は上の図に示すように、ホーチミン経由でその日のうちにハノイ入りしここで2泊して市内観光、世界遺産のハロン湾観光をしてから、カンボジアのアンコールワット近辺のシェムリアップ空港に移動します。ここで3泊してアンコールワット、アンコールトム、ロリュオス遺跡、バンテアイスレー、タ・フロム、ブレループなどアンコール王朝華やかなりし頃に建造された寺院等の見学をします。そして、ホーチミンに移動して1泊しメコンデルタの街ミトー、メコン川クルーズ、若い女性に人気のショッピング、民族舞踊などを楽しんでから二日目の深夜に中部国際空港に向けて帰国する経路と日程となっております。(ホテル6泊。機中2泊)


朝焼けの空を背景に黒いシルエットのアンコールワット

昨日の日記でも触れましたように、カンボジアの歴史はまさに他国からの侵略の歴史でもあります。しかし、その中でもある一時期だけ光り輝いたことがありました。802年にジャヤヴァルマン2世を初代王として建国されたアンコール王朝は15世紀にタイのアユタヤ王朝の侵略を受けて滅亡してしまいましたが、12世紀初頭に即位してアンコールワットを建造したスールヤヴァルマン2世の治世から12世紀末に即位してアンコール・トムの都などをを造営したジャヤーヴァルマン7世の治世に至る約100年間は「全ての道はアンコールに通ずる」と言われるほどに、東南アジア最大の大帝国を誇り、その領土は現在のカンボジア、タイ、ラオス、ベトナム南部に及び、まさに輝ける時代でした。

そのアンコール王朝の象徴でもあるアンコールワットは、カンボジアの人たちにとってこころのふるさとだと思います。アンコールワットは侵略によって荒れ果て、やがて密林の奥深くに埋もれ、漸く130年前にフランス人によって発見されましたが、地元の人たちにとっては信仰の対象であり御参りを欠かさなかったと言われております。それでは、そのカンボジアの歴史を総括してみたいと思います。

・カンボジアの黎明:
カンボジアの歴史は、他国からの侵略の歴史であると言えます。 1世紀頃、ほぼ現在のカンボジアが位置する地域に、扶南(フナン)という王国が存在していたことが中国の歴史書によって確認されております。この地域は3世紀頃までは未開の地でしたが、インドと中国の中間地点にあるため外国文化が流入し商業国家として繁栄ました。6世紀には、カンボジア国家の起源と思われる真臘(シンロウ)が勃興しました。この国は扶南の属国でしたが7世紀には扶南を滅ぼし、ジャヤーヴァルマン1世(657年-681年)の治世の頃、現在のカンボジアとラオス南部を領土して最盛期を迎えていたものと思われます。しかし、ジャヤーヴァルマン1世の死後、分裂して弱体化し8世紀にはジャワ王国の属国となってしまいました。

・アンコール王朝の繁栄:
9世紀のはじめにジャワで囚われの身であったカンボジアの王子が帰国し、ジャヤーヴァルマン2世(802年 - 854年)となって勢力を拡大しました。その後、彼はカンボジアを再統一してジャワから独立させ、アンコール王朝を開きました。9世紀後半、次の王ヤショーヴァルマン1世の時代に、プノン・バケンを中心にヤショーダラプラの都が営まれ、スールヤヴァルマン1世が後のアンコール・トムの中央に王都を建設し、1113年にスールヤヴァルマン2世が即位して国内を統一し、チャンパや大越国へ攻め入りました。また、彼は寺院建築にも熱心で、自身の墓でもあるアンコール・ワットを始め、トマノン、バンテアイ・サムレなどのヒンズゥー寺院を建設しました。

スールヤヴァルマン2世死後、王位を巡り豪族間の抗争が多発し、豪族により王位が簒奪されるたびに都の遷都が繰り返されましたが、貯水池や潅がい用水路の整備、寺院の建立などは盛んに行なわれました。 1177年に、チャンパの大軍が侵攻し首都ヤショーダラプラを破壊してしまいました。しかし、1181年、チャンパに遠征していたジャヤーヴァルマン7世(1181年-1220年?)が帰国して即位し粘り強く国づくりを進め、1190年には宿敵チャンパを降伏させ、11世紀からの支配地のタイと併せて領土を最大にしました。

こうして、東はベトナム中部にあったチャンバ王国、西はタイの大部分、南はマレー半島北部に及ぶ東南アジア最大の大帝国、クメール王国(アンコール王朝)がジャヤーヴァルマン7世によって築かれました。そして、ジャヤーヴァルマン7世は、熱心な大乗仏教の信者としてアンコール・トムを都として造成し都の中心にバイヨン寺院を建設し、バンテアイ・クデイ、タ・プロム、プリヤ・カンなどの仏教寺院を建設しました。 ジャヤーヴァルマン7世の大遠征や大建築は国庫を窮乏させ、王の死後、国力は次第に衰退していきました。

・アンコール王朝の落日:
最盛期を迎えていたクメール王国も、ジャヤバルマン7世が没して以降、翳りをみせ始めました。13世紀後半から、クメール王国を脅かす新興勢力が各地に現れ、東南アジア大陸部の勢力図を塗り替えることになりました。その新興勢力とは、13世紀にユーラシア大陸のほぼ全域に侵攻し、この地域にも侵攻してきたモンゴルに追われて大挙して南下し現在のタイ・ラオスの地に移り住んできたタイと西のビルマ、東のベトナムの諸民族で北から徐々に南下する過程でクメール王国を脅かしていきました。

まず、まずタイのアユタヤ朝がクメール王国を脅かし、15世紀にはついにアンコールを陥落させ、タイの王子がカンボジアの王位に就きました。しかしカンボジアの王子が彼を殺し王位に就いたもタイの侵略を恐れプノンペンに遷都しましたが、その後もタイの侵略は続きました。16世紀前半、タイ軍を一時撃退しプノンペン北北西40kmのロヴェックに遷都したものの、タイ軍に陥落され、この時点でアンコール王朝は終焉しました。 17世紀になってもタイの執拗な侵略が続き、カンボジアはウドンに遷都し、ベトナムからの援助を頼んだことから、この後はタイとベトナム両国の干渉を招くことになになりました。 更に、王族間の王位継承をめぐる争いもあって、カンボジアの領土は縮小し18世紀には現在のカンボジア南部のみの小国になってしまいました。

・フランスによる植民地化:
19世紀初にカンボジアはタイとベトナムによる分割占領を恐れてフランスに援助を求めましたが、タイの反発を危惧して方針変更してしまいました。しかし19世紀中頃、ベトナムを占領したフランスはカンボジアを保護国としてしまいました。 保護国化の条件として、弟に奪われた王座をとりもどし復位したノロドム王はプノンペンに遷都したのですが、フランスはカンボジアを19世紀後半に強引に仏領インドシナ連邦に編入して王を退位させた。その後、シソワット王、シソワットモニヴァン王と王位が継承されている間にフランスの保護のもと、カンボジアは旧領を回復しつつあった。しかし植民地政策の過酷な要求にさらされた。

・日本軍の進出・敗戦とその後の独立:
20世紀中頃、日本軍の東南アジアへの進出に伴いフランスが後退し、フランスとタイの紛争を日本が調停した結果、カンボジアが取り戻しつつあった旧領が再びタイ領土となってしまいました。 1941年に日本軍がカンボジアに進駐しフランスを駆逐したことにより、カンボジアは独立しました。しかし、日本の敗戦により舞い戻ってきたフランスにより独立は消滅してしまいました。その後、シアヌーク王はタイに奪われていた領土を回復させ、フランスに対して粘り強く抵抗、交渉して1953年に完全独立を勝ち取りました。

・ベトナム戦争とカンボジア内戦:
日本軍が進出してくる直前に、シソワットモニヴァン王が崩御、日本軍進出後に父方ではノロドム王の、母方ではシソワット王の曾孫にあたるノロドム・シアヌーク王が即位しました。 1955年シアヌーク王は王位を父に譲り、社会主義政党サンクムを率いて総選挙に出馬し、首相に就任し、父の死後も王位には就かずにシハヌーク殿下として国家元首となりました。父の死後も王位には就かずに国家元首となり、中国の社会主義政策を見習い「王政社会主義」という王政と仏教を護持しつつ社会主義体制をとりました。

しかし、1970年に親米派で右派のロン=ノル将軍がクーデターを起こし、外遊中のシハヌーク殿下の国家元首を解任したため、シアヌーク殿下は北京に亡命しました。そして北京で、カンボジア民族統一戦線(反政府、反米勢力)を支援します。シアヌーク殿下は、国家元首時代にベトナム戦争(1960年-1975)には中立の立場をとりながら、同時に国内でのベトナム解放戦線(ベトミン)の活動を黙認していたためベトミンと戦っていたアメリカには、カンボジア国内にあるベトナム軍基地を攻撃するためには、ベトミンを黙認し「中立」を国際社会に連発するシアヌーク殿下が邪魔だったという背景が有りました。

しかし、それでも1969年には、シアヌーク殿下は政府軍だけではベトナム軍のカンボジア進入に対処できないためアメリカにカンボジア内のベトナム軍を攻撃するように要請したためアメリカ軍がカンボジアに侵攻するきっかけを作るなどシアヌーク殿下には言行不一致がみられ、これがその後のカンボジアの政局を複雑にしたように思われます。こうして、ベトナム国境付近の150万もの農民たちは、戦争に巻き込まれるにつれてプノンペンに集結し難民と化していきました。

1975年、アメリカがベトナム戦争に敗れるとアメリカにとってロン=ノル政権は利用価値が無くなったことからアメリカに見放されてプノンペン陥落(1975年)をもっては50万のカンボジア人の犠牲者を出した第一次カンボジア内戦は幕を閉じました。しかし、その後カンボジアを支配したポル・ポト等が率いる「民主カンプチア統一戦線=クメール・ルージュ」による圧政は新たに抵抗勢力との新たな第二次カンボジア内戦を招き、カンボジア内戦は結局、ロン・ノル将軍がクーデターを起こした1970年から1991年の抵抗勢力を含む4派合同政権が誕生するまで21年間の長きに渡ってしまいました。その間に当時のカンボジアの人口の1/3から1/4に相当する200万人前後の人たちが犠牲になったと言われております。

・ポル・ポト政権誕生とその圧政:
カンボジア共産党は1950年代の初めに設立され当初はベトナム共産党の指導を受け、1970年代に党名を「民主カンプチア党」に変更したましたが、フランス語の「クメール・ルージュ(赤色クメール)」として一般に知られるようになりました。このクメール・ルージュ軍はロン・ノル政権に対する軍事行動を始め、ロン・ノル政権に対抗していたシアヌーク殿下の支持を受けるなどして国の大半を支配し、ついに1975年4月17日、クメール・ルージュ軍はプノンペンを占領、ロン・ノル政権を倒し国名を民主カンプチアと改名しました。そして、ロン=ノルやシアヌークに飽き飽きしていた国民は、プノンペン陥落のこの日を新しいカンボジアの到来を告げる日と期待しましたが、それは裏切られ、多くの人たちにとって悪夢のポル・ポト政権による圧政の始まりでしかありませんでした。

クメール・ルージュの軍司令官サロト=サル(王族出身)は、中国からの大量の武器援助、アメリカに支援されて腐敗したロン=ノル政府に対する人々の不満、シアヌークの強い人気を得て、内戦を有利にすすめました。やがて、ロト・サルは、ポル・ポトと改名し、「原始共産制」という政策を実施しました。

この「原始共産制」は、全ての生産手段を共有し、生産物を社会全体で平等に分け与える 制度のことで、この社会では、学校・病院はおろか貨幣すら必要ないとされ、完全な自給自足の体制が理想とする原始的な方法からな名付けられました。その結果、自由な恋愛は許されず、結婚相手は国家が決めるという、ムチャクチャな社会が生まれました。

クメール・ルージュは、「革命の恩恵は農村の労働者に与えられるべき」という視点と、階級の無い完全な共産主義社会の建設を目指すとの考え方から都市居住者、資本家、技術者、学者・知識人など頭脳階級から一切の財産・身分を剥奪し、郊外の農村に強制移住させました。学校、病院および工場も閉鎖し、銀行業務どころか貨幣も廃止し、宗教も禁止し、一切の私財を没収した。移住させられた人々は、強制労働収容所より小さい「集団農場」で農業に従事させられる一方、インテリ階級は反乱を起こす可能性があるという理由で処刑されました。

反乱を企てた農民も殺され、反乱の首謀者になる可能性があるリーダー格の人間も、革命が成功したことを知り、国の発展のためにと海外から帰国した留学生や資本家もやはり殺されました。また、子供は親から引き離して集団生活をさせ、幼いうちから農村や工場での労働や軍務を強制しました。クメール=ルージュは、米軍の爆撃の結果生じた大量飢餓から人々が食糧を自給できるように地方への移住を行ったと主張することにより、こうした残虐行為を正当化しました。

・ベトナムのカンボジア侵攻とヘン=サムリン傀儡政権誕生:
ポル=ポト首相にそむいて追放されたヘン・サムリン将軍のグループは隣国ベトナムに身を寄せ、政権への復帰を目指しました。1978年、ベトナム戦争でアメリカを敗退させるほどの屈強さを誇るベトナム軍は、ヘン=サムリンをリーダーとする「カンプチア救国民族解放戦線」を支援する形でカンボジアに侵攻、ポル=ポト政府との戦争となりました。この時、ベトナム軍は、衝撃的なビデオ映像を世界に公表しました。何の変哲もないカンボジア各地の山の地面を掘り起こしてみると、額に銃の痕がある人骨が山のように出てきたのです。ポル・ポトが政権の「原始共産制」に疑問を持った者、知識人と判定された者、都市から移住することを拒んだ者は全員銃殺されたのでした。

ベトナム軍は、こうして銃殺された者は当時のカンボジア人の6人に1人に相当する100万人に及ぶと発表しました。これが、当時世界を震撼させたポル・ポトによる大量虐殺事件です。この結果、ポル=ポトは政権の座を追われ、ゲリラとなってヘン・サムリンに対抗し、タイ、中国の支援を得ながら復権を狙っていました。一方、強力なベトナム軍の支援を受けてヘン・サムリン政権が誕生しました。そして、1989に、5万人の死者を出してベトナム軍がカンボジアから撤退しましたが、皮肉なことに5万人はベトナム戦争でのアメリカ軍の死者とほぼ同じでした。

・ベトナム軍撤退と4派合同政権誕生による内戦終結:
ポル・ポトはタイとの国境に近いジャングルに身を潜めて復権を狙って過去に抗争したロン・ノル派やシアヌーク派と3派連合を作りゲリラ戦を展開しました。一方共産主義体制を崩したいアメリカもCIAを通じこの3派連合を支援。また中国もポル・ポト派に大量の武器などを供与しました。 ポル・ポト派はその後20年に渡りジャングルでの抵抗活動を続けましたが、1991年に過去最大規模のPKOにより、ようやくポル・ポト派を含めた紛争4派がパリ協定に調印することで、21年間に及ぶ内戦は終結しました。その結果、シアヌーク殿下が亡命先の北京から帰国し、盛大に歓迎されました。

・国連管理下の総選挙とフン・セン−ラナリット暫定政権誕生: フン・センは、1970年3月、北京に亡命中のシアヌーク国王の呼びかけに応じ、ロン・ノル政権に対抗するクメール・ルージュ軍の各級部隊指揮官として従軍しましたが1976年になるとクメール・ルージュの過激な政策に嫌気がさし、翌年の6月にポル・ポト派を離脱しベトナムに亡命しました。1979年1月のヘン・サムリン傀儡政権成立を機にカンボジアに戻り、人民革命党第3回党大会において党中央委員に選出され、人民革命評議会メンバー兼外務大臣に就任しパリ和平会談で重要な役割を果たしました。

・カンボジア初の選挙とフン・セン首相に就任:
1993年、国連事務次長・明石康をトップとする国連カンボジア暫定統治機構の管理下に入り、はいくつかのグループの妨害を乗り越えて総選挙が実施されました。この選挙活動中、日本から派遣された高田晴行警部補とボランティアとして選挙の広報活動を行っていた中田厚仁青年が妨害派に襲われて死亡する悲しい事件が起こりました。

総選挙後に、フン・センはノロドム・ラナリット王子と共に暫定国民政権共同首相に就任、9月にはカンボジア王国第二首相に就任し、1994年にポル・ポト派を非合法組織として認定したため1996年には数千人の兵士が投降してきました。フン・センはこれらのポル・ポト派兵士を国軍に入隊させて政権基盤を強化したのに対して、共同統治者のラナリット第一首相が反発して対立しました。

1997年にフン・セン第二首相は武力クーデターを起し再び内戦が勃発しましたが、1998年にカンボジア初の選挙が実施されシアヌーク国王の仲介などにより両者は連立政権を結成しフン・センがカンボジア王国首相に就任、2004年7月にカンボジア王国首相に再選されました。また1998年、ポル・ポトが病死し、4月には国連の議席を復活させASEAN(東南アジア諸国連合)に正式加盟しました。カンボジアでの混乱はこれで一応の収束はしたもののポル・ポトに時代の虐殺行為に対する犯罪者調査と裁判などが開始されそれに伴い関係者が再び内戦を引き起こすのではとの懸念も広がっております。


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