−日記帳(N0.1394)2005年10月06日−
バリ島のテロに思う(2)
−日記帳(N0.1395)2005年10月07日−
欧米・豪人がテロ標的になる背景


バリ島全図

この日記帳の2002年10月15日付けで「バリ島でのテロに思う」と題して、 バリ島で起こったテロについての思いを書きましたが、また同じ題名でこうして書くことになったことを残念に思います。 先回のテロは、私たちが訪れた2002年1月末の9ケ月後に発生しましたので記憶も生々しかったのですが、今回の同時テロはあれから3年も経過しておりますので、当時の記憶を本サイトの「バリ島旅行記」でたぐりながら以下綴ってみたいと思います。

当時、我々が宿泊したホテルは、バリ島の南端にあるヌサ・ドュア地区の高級リゾートホテルの五つ星のシェラトン・ヌサ・インダーホテルでした。インドネシア政府はこの地区が島だったことに目を付けてこの島とバリ本島を道路で結び、島内を整備して欧米資本のホテルを誘致し、テロなどから守るためにホテル地帯の一画を囲って出入り口に検問所を設置してバリ島の住民が中に入れないようにしておりました。従って、我々宿泊客がホテルから外出する際にはここで検問を受けることになっていたはずですが、当時は殆んどノーチェック状態でした。

オーストラリア人を含む欧米人たちは、海岸沿いのクタ・レギャン地区と、フォーシーズンホテルなどの高級リゾートホテルが密集しているジンバラン地区に宿泊することが多いのですが、ここは日本人観光客が嫌う物売りが多いため、物売りが完全シャットアウトされるヌサ・ドュア地区に日本人が宿泊する傾向が有るようです。バリ島旅行では、ガイドさんを個人的に現地で雇うのが普通で、我々も若い女性のガイドさんと運転手を車付きで雇い島内観光に出かけましたが、その料金が1日で日本円で1万円という安さでした。

そのガイドさんがバリ島観光についていろいろアドバイスをしてくれましたが、その中に「クタ・レギャン地区の繁華街は若者中心の街で物売りが多く治安が悪いので絶対に行かないで下さい」が有りましたので、これを忠実に守り旅行中は最終日まではこの地域には出向きませんでした。実はどの観光地に行っても物売りがうるさくて閉口しておりましたので、バリ島で一番物売りが多いと聞いただけでとても行く気にはなれなかったのが本音でした。しかし、このクタ・レギャン地区が2002年と今回ともにテロの標的になったのでした。

しかし、最終日になってはじめて、クタ・レギャン地区の繁華街の有名免税店「プラザ・バリ」に出向いて驚きました。それまでホテル内のレストランで夕食を摂っていたのですが毎晩我々以外に客がいない上、料金も高いので他の宿泊客が外食していることを知り、ガイドさんから渡された封筒の中にクタの「プラザ・バリ」のチラシが有りましたので、そこで夕食をとることにしてホテルのフロントにその旨告げてタクシーを頼んだところ、そのチラシを見せれば無料とのことでしたので喜んで乗り込みました。20分ほどで着きましたがメーターは約2万ルピア(260円)で日本のほぼ1/10の安さでした。

更に、ここのレストランで食事を摂って、レジで「プラザ・バリ」のチラシを見せたところ、料金は不要とのことでしたので、気をよくして「プラザ・バリ」で1万円近い買い物をしてしまいました。こうして、ガイドをを通してタクシー代、食事代を無料サービスして免税店で買い物をさせるという手口に驚いたわけです。

今回の同時テロは、起こった場所のひとつがクタ・レギャン地区繁華街の中のレストランだったこと、通して標的がオーストラリア人を含む欧米人だったこと、国際テロ組織アルカイダと関係があるイスラム地下組織ジェマ・イスラミア(JI)など過激派の犯行であることで先回のテロと共通しておりますが、今回は複数の自爆犯によるものと考えられている点では異なっております。

実は、私はバリ島旅行を企画するまでは、バリ島がインドネシアの一部であることを知らず、バリ島自体が独立した国と思っていました。何故なら、インドネシアはイスラム教国であるのに対してバリ島は島全体がヒンズー教で風俗・習慣もインドネシアとは全く異なっているからです。同じ思いを抱いている日本人観光客も相当多いのではないかと思います。1980年代になってインドネシアは近年、目覚しい発展を遂げつつありますが、その一方で貧富の差は拡大し、その恩恵にあやかれない一部のイスラム教徒にとっては、イスラム教を受け入れずヒンズー教のもとで欧米文化に浸るバリ島は退廃的存在に映るものと思われます。そしてインドネシア人に共通の反オーストラリア感情も関係していたと思われます。

一緒に旅行したツアー客のある方が、ここはイスラム教徒が少ないからイランやイラクより安心という見方をされておりましたが、それがとんでもない誤解であることが、2回にわたるテロで実証されたように思います。ここで、何故二つのテロともオーストラリア人を含む欧米人が標的になっているかについて考えてみたいと思います。それには、バリ島の東側にあるティモール島の歴史を知っておく必要が有ると思いますので、明日、このことに触れてみたいと思います。


インドネシア全図

バリ島の3倍弱の長野県ぐらいの広さのティモール島は、17世紀以降、オランダとポルトガルがお互いに領有権を巡って争い1859年のリスボン条約でティモール島を東西に分割しましたが1942年に日本軍の全島占領によって両国の支配が薄れ、1945年のインドネシア共和国独立とともに西ティモールはインドネシアとして独立しました。一方、東ティモールはポルトガルの支配をその後も受けましたが、1974年のポルトガル本国のクーデターを契機にポルトガルが東ティモールからの撤退政策に踏み切ったことを契機に1975年に、東ティモール独立派は東ティモール民主共和国の独立を宣言しました。

インドネシアは独立した時点で、全島をインドネシア領と見做していたため、東ティモールの独立に猛反発し東ティモールに侵攻して首都ディリを占領し翌1976年7月にインドネシア27番目の州として強引に併合してしまいました。その結果、フレテリン等による独立派はゲリラ戦でインドネシア国軍及び併合派と激しく対抗し内戦状態に陥りました。このインドネシアの東ティモール不法占拠に対して、欧米などが国際正義のもと、インドネシアに対して不法占拠をやめるよう働きかけるのが当然なのに見て見ぬ振りをして放置しておりました。

その理由は、当時は冷戦状態にあったため、社会主義国家として東ティモール民主共和国が独立すると、第二のキューバになってソ連がここに軍事拠点を築いて南隣のオーストラリアを脅かすことを懸念したからでした。そして日本もこれにならいインドネシアにODAによる巨額の援助を続けていきました。しかし、独立派は東ティモール人の1/3に相当する20万人が虐殺、飢餓で死亡したものの、粘り強くインドネシアを後ろ盾とする反独立派、つまりインドネシアとの併合派と戦い続けたため、第二のベトナム戦争になることを危惧したインドネシアはついに侵攻23年後の1999年に国連の仲介のもとポルトガルとの間で合意された東ティモール人による直接投票の実施に合意し8月30日に国連東ティモール暫定行政機構(UNTAET) 監視のもとで投票が実施されました。

有権者の98.6%が投票し9月4日に80%近い圧倒的多数の人々が独立を支持したことが発表され、これで東ティモールの独立が認められて問題解決するものと思われたのですが、それでも独立に反対する反独立派の民兵による暴力が頻発し、25万人以上の東チモール人が西チモールへ避難し難民化してしまいました。2000年には3人のUNHCR職員が民兵に殺害されるという敵意に満ちた雰囲気の中で、UNHCRはこの難しい東ティモールの帰還を進めるための努力が実って2002年には22万以上が東ティモールに帰還し、同年5月20日に念願の独立を果たし現在に至っております。

しかし、この過程でオーストラリアや欧米がインドネシアが取った態度に多くのインドネシア人が反感を抱くようになりました。何故なら、当初はインドネシアの東ティモール不法占拠に対してオーストラリアや欧米は見てみぬ振りをし、むしろ暗に応援するような態度をとっておきながら冷戦が終結すると、東ティモールの独立を認めるようになり、特に1998年にオーストラリアがそれまでの態度を急変して東チモールの独立を支持することを表明したため、一気に反オーストラリア感情が高まったのでした。 この頃より、ジャカルタのオーストラリア大使館がテロにより爆破されるなど、オーストラリア人を標的にしたテロ相次ぐようになり、バリ島での2回にわたるテロもオーストラリア人を標的していたことは間違いないところです。バリ島は資源もない小さな島で経済は観光客で支えられており、これ以上テロが相次ぐとこの島は破綻してしまいます。インドネシア政府の抜本的なテロ対策が望まれます。


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