−日記帳(N0.1400)2005年10月14日−
ツルのヒマラヤ越えの謎
−日記帳(N0.1401)2005年10月15日−
カシミヤからカシミールに思いが


エベレストの山頂部から発見されたアンモナイトの化石

秋になると、ツルの大群がチベット方面からヒマラヤ山脈を越えてインドに渡る ことが知られており、その数は数十万羽とも言われその様子は壮観そのものだそうです。そして、このツルのインドへの渡りがモンスーン明けの好天の頃に当たるとの日本山岳会・松田氏の提案を受けて多くの日本の登山隊がツルのヒマラヤ越えを観察してヒマラヤ登山を成功させてきております。

そこで、何故ツルは8,000mを超えるヒマラヤ山脈を越えなくても、少し遠回りにはなりますが西側の中央アジアからイラン、東側の中央アジアから中国の両ルートでインドに行けるはずです。そこで、最初にツルがヒマラヤ越えをした頃はまだヒマラヤ山脈が形成されていなかったのではとの学説が唱えられるようになりました。鳥類の起源が1億年以前、ヒマラヤ山脈がインド・オーストラリアプレートとユーラシアプレートの衝突により隆起し始めたのが4,000万年前であることは科学的に実証されているようですから上述の学説は充分有り得ることと思われます。

1936年にアーノルド・ハイムたちはヒマラヤの中央地帯を横断する調査を行ない、はじめてインド・オーストラリアプレートとユーラシアプレートの衝突・合体した傷跡とも言える「縫合帯」を発見し、1964年にエベレストの頂上部が海底だったことをそこから海の生物の化石を発見したことで立証しております。上の画像は、エベレストの4,000mから6,000mのチョモランマ層から発見されたアンモナイトの化石です。地球上の世界最高峰が海底だったと知って、ツルのヒマラヤ山脈越えとともにロマンを感じました。

そして、このヒマラヤ山脈の隆起は一気に起こったのではなく徐々に起こったものされており、仮にこの2,000万年で8,000m 隆起したとすれば1万年で4m 程度ですから、ツルにとって少なくともは自分が生きている間には 隆起を実感することはないまま子孫に伝えらているうちに、ツルが8,000m の高山を渡れるように進化したとの学説に発展しております。この学説の真偽のほどは私には判りませんが、今回のパキスタンで起こった大地震が、このヒマラヤ山脈隆起の原因となったインド・オーストラリアプレートとユーラシアプレートのせめぎあいでその南麓に沿って生成した帯状に2,000kmも続く世界最大級の活断層によるものと知ってロマン気分は吹き飛んでしまいました。


印・パ・中国に囲まれたカシミール地域

秋も深まりシャツ1枚では肌寒さを感ずるようになりましたので、カシミヤの薄いセーターをタンスから取り出したところ、目に付きやすいところに虫食いの跡を見付けがっくりと肩をおとしてしまいました。娘が父の日にプレゼントしてくれたもので私の体型によく合い着易くて重宝していただけに残念でした。しかしこの上にブラウスを重ね着すれば虫食い跡は見えなくなりますから今後はそのような着かたをすることで大事に使っていくことにしました。そこで、ふとこのカシミヤのか原産地だったカシミール地方に思いを馳せました。今やこの地方に起こった大地震で大変なことになっているからです。この機会にカシミール地方のことを少し調べてみました。

インド、パキスタン、バングラディッシュがかっては同じ国だったことは案外知られておりません。インドは英国の植民地でしたが、インド国内では約7割のヒンズー教徒と3割のイスラム教徒が対立していたため英国はその統治に苦慮し、更に第二次世界大戦で対独参戦を巡って賛成、反対の両派が対立、更には対日政策を巡る対立も生まれ、インドは支離滅裂の状態のまま終戦を迎えました。そして、1947年に時を同じくしてインド国内のイスラム教徒たちはインドの東西にパキスタンを作って独立、パキスタンに挟まれた地にヒンズー教徒たちはインドとして独立しました。

実はこの時、独立を焦った両国は大変な忘れ物をしてしまいました。両国の境界に位置するカシミール地方の帰属をうやむやにしておいたのです。これが後に両国が原爆まで保有してその領有を主張し一触即発の緊張状態を招く原因になってしまいました。このカシミール地方は、上の画像で示すように北でアフガニスタン、西でパキスタン、東で中国、南でインドに接し、世界第二の高峰K2をいだくヒマラヤ南麓に位置し日本のほぼ6割ほどの広さの地域ですが、ここに住んでいる人たちが一筋縄では行かないシーク教徒であることがカシミール問題の発端となりました。

シーク教はヒンズー教のカースト制度を否定して人間の平等を唱え、一神教で絶対真理としての神を崇拝し偶像崇拝や苦行も否定してイスラム教に改宗した宗教で、その教徒はターバンを頭にぐるぐる巻きにしておりまっすので、直ぐに判ります。彼らは清潔好きなのに何故か生まれたときから髪の毛を切らずに、編んであのターバンの中に詰めているのです。彼らは大柄で宗教的信念に支えられて我慢強く支配者の英国軍と徹底的に戦いぬいたため英国軍は手を焼いて統治を断念し、当時インド国内に群雄割拠していた藩王国に売却し、それが転売されて最終的にはジャンムー・カシミール藩王国になり問題の発端となりました。

英国軍は国境に駐屯していたものの藩王国の自治には口を出しませんでしたので、自治能力のないジャンムー・カシミール藩王国はバラバラの状態で第2次世界大戦の終戦を迎えてしまいました。その時、500もの藩王国はインドとパキスタンどちらに帰属するかは自分達で決めて良いとされておりましたが、このカシミール藩王は独立を意図したのですが、全人口の約70%を占めるシーク教徒などのイスラム教徒は独立に反対してイスラム教国のパキスタンへの帰属をカシミール藩王に要求しました。この動きに呼応してパキスタン軍がカシミールの独立を阻止しようとしてカシミールに軍を派遣したことから、ヒンズー教徒のカシミール藩王はヒンズー教国のインドに保護を求めたたためパキスタンとインドの戦争に発展し現在に至っております。



上述の印パ戦争(第一次)は国連の調停で停戦しましたが、1965年に第二次印パ戦争が起こり、インド軍がパキスタン領内まで侵攻したためパキスタンは再び国連の停戦協定を受け入れましたが、インドの軍事的優位性が浮き彫りになり、パキスタンは窮地に陥りました。1970年のパキスタン総選挙で東パキスタンを地盤とするアワミ連盟が国民議会の過半数を占めるに至って、西パキスタンの政治・経済的優位を維持しようとする大統領との対立が深まり東パキスタンの独立を要求してきたため、西パキスタンは東パキスタンへ軍隊を派遣、西パキスタンのバングラ人と内乱状態になりました。

その翌年、インド軍が東パキスタンの支援要請を受けて武力介入したため、今度はカシミールではなく東パキスタンを巡って第三次印パ戦争が始まりました。しかし軍事的優位なインドにパキスタンは14日間で無条件降伏し、東パキスタンはインドの支援のもとに「バングラディッシュ」として独立しました。この戦争によって、パキスタンは国土の2割近くと人口の60%を失うこととなった一方インドはバングラディッシュの独立によって、東西パキスタンに挟まれる形で受けていた軍事的圧迫のうち、東からの圧力を完全に除去することに成功しました。こうして、パキスタンは通常兵器ではインドに対抗できないとして、1998年にインドに次いで原爆実験を強行して核保有国の仲間入りをしてしまいました。その発端がカシミール問題にあったことに間違いありません。


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