−日記帳(N0.1404)2005年10月18日−
日本のシンドラー・杉原千畝
−日記帳(N0.1405)2005年10月19日−
東條英機等元A級戦犯の遺骨


岐阜県・八百津町にある杉原千畝記念館

終600ドラマスペシャル「日本のシンドラー杉原千畝物語」が、日本テレビの「火曜サスペンス劇場」の時間帯で先週火曜日(10/11)に放映されました。主人公の杉原千畝に反町隆史、その妻に飯島直子が扮して好演しておりました。第二次大戦下のリトアニアで、当時の外務省の命令に背いてユダヤ難民たちに通過ビザを発給した若き外交官、杉原千畝の行動をドラマ化したものでした。

彼は、旧制愛知県立第五中学(現愛知県立瑞陵高校)卒業後、医師を奨めた父の意に反して外交官を志して1918年に早稲田大学高等師範部英語科予科に入学、翌年中退して外務省の官費留学生として中国のハルビンに派遣され、ロシア語を学びました。そして、1924年に外務省書記生として採用され晴れて外交官となりました。このように、彼は帝大や東京外語出身のエリート外交官ではなかったこともあって、1932年から1935年にかけてロシア外交の専門家としてソ連との北満州鉄道をめぐる交渉などの地味な任務を与えられましたが、ここでロシア側の虚偽報告を見破るなどの功績をあげましたが、そのためにロシア側の反感を買ったため後年、そのことが彼の運命を変えることになったのは皮肉なことでした。

その後、1937年にはフィンランドのヘルシンキ日本大使館に赴任したものの、フィンランドに強い影響力を持っていたロシアから締め出されて1939年にリトアニアの在カウナス日本領事館領事代理となりました。1940年夏、ナチス占領下のポーランドからリトアニアに逃亡してきた多くのユダヤ人がここから出国するために各国の領事館・大使館に押しかけてビザを取得しようとておりました。ところが、ソ連はリトアニアを併合したことにより各国に在リトアニア領事館・大使館の閉鎖を求めたため、ユダヤ難民たちはそれでも業務を続けていた日本領事館に通過ビザを求めて殺到してきたのでした。

当時、日本政府はユダヤ人に中立的な政策を公式に取っておりましたが、友好国ドイツへの配慮により通過ビザの発給を受けるためには十分な旅費を備えるなど厳しい条件を満たすことでユダヤ難民を事実上締め出そうとしておりました。彼は、これらのユダヤ難民たちがここでビザの発給を受けられなかったら、ポーランドに送還されて収容所送りとなって処刑される運命が待ち構えていることを知り、領事館の外に立尽している彼らを領事館の窓越しに見つめて悩みぬいておりました。

そして、外務省にその窮状を訴えて発給条件の緩和を求めましたが拒否されたのを受けて、外務省の指示を無視して発給することに傾きかけていた時、妻が「私達のことは心配しないでいいからあなたの思うとおりにやって下さい」と激励されて意を決し、ユダヤ難民たちを個別に館内に招き入れて面接の上発給手続きを行ないました。しかし、逐一記録を取って渡航証明証を発行していたのではとても追いつきませんので、ゴム印を使い、やがては記録も取らずにパスポートにゴム印とサインをするだけになり、更には領事館が閉鎖されてからは駅のホームで、サインだけするようになるまでも必死の思いで発給し続けたのでした。

この発給により、1家族につき1枚のビザで十分であったため、家族を含めて少なくとも6000人ものユダヤ人の国外脱出が可能になったと言われております。その後、国外脱出を果たした彼等は、シベリア鉄道を経由してユダヤ系ロシア人のコミュニティがあった神戸に辿り着き。1000人ほどはアメリカやパレスチナに向かい、残りは後に上海に送還されるまで日本に留まっておりました。上海にもユダヤ人難民の大きなコミュニティがあり、そこでユダヤ人たちは日本が降伏する1945年まで過ごしたと言われております。

一方、彼らが脱出したリトアニアはその後、独ソ戦が勃発した1941年にドイツの猛攻撃を受け、ソ連軍は撤退。以後、1944年の夏に再びソ連によって奪回されるまで、ドイツの占領下となり、この間のユダヤ人犠牲者は20万人近くに上るとされておりますので、もし杉原千畝がビザを発給しなかったら大半の人たちが犠牲になっていたものと思われます。

このスペシャルドラマでは、外務省に批判的ですが、外務省も実は杉原千畝の行動に一定の理解をしていたのではとの意見を私は持っております。何故ならば、あれだけ外務省に対するは違反行為をした杉原千畝を、その後チェコスロヴァキアの在プラハ総領事館総領事代理、ドイツの在ケーニヒスベルク総領事館総領事代理、ルーマニアの在ブカレスト日本公使館一等通訳官などに着任させ、1944年には勲五等瑞宝章を受賞させているからです。そして、同盟国の対独関係を重視し、杉原千畝の背反行為を国際的に無効とする立場をとることも出来たはずなのに、ユダヤ難民たちが杉原千畝が発給したビザで日本に入国した際に、入国審査で発給条件を欠いているとして入国拒否したものの、神戸ユダヤ人協会と駐日オランダ大使館の意向を受け入れて入国許可している事実もこれを裏付けていると思われます。


東條英機等7人のA級戦が祀られている墓

私は春から夏にかけて蒲郡から豊橋を経由して伊良湖方面にメバル、アジ釣りに出掛けますが、その途中幡豆町にある三ヶ根山の山麓を通ります。先日、時間に余裕が有りましたので有料道路を経て三ヶ根山の頂上に登ってみました。すると、上の写真の「殉国七士廟」の墓標が目に付きました。実は、この夏テレビ出演された東條英機元首相の孫娘に当たる東條由布子さんが「殉国七士廟」に墓参りされるとの話を聞いて、ここにそのようなお墓が有ることは知っておりましたが、まさか本当にここに東條英機元首相の遺骨が納められて祀られていたことは知らなかったのです。

昭和23年12月23日未明、A級戦犯の7名(東条英機元首相、土肥原賢二元陸軍大将、広田弘毅元首相、板垣征四郎元陸軍大将、木村兵太郎元陸軍大将、松井石根元陸軍大将、武藤章元陸軍中将)は巣鴨で米中ソの三国代表立会のもとで絞首刑に処され、その日に横浜市久保山の火葬場で武装米軍兵士監視のもとで火葬されその遺骨は遺族に引き渡されることなく7名分もろとも粉砕されて太平洋上に散骨されております。従って、靖国神社には彼等戦犯の遺骨は祀られていないのに、何故、「殉国七士廟」には遺骨が納めらているのかについてお話してみたいと思います。

マッカーサー司令部の方針で、A級戦犯の7名の遺骨が遺族に渡されることなくまとめて散骨されることを知った住職、弁護士たち有志の人々が決死の行動で米軍兵士の監視の目を盗んで遺骨の一部の入手に成功したのですが、隠し場所に香を焚いたため米軍兵士に見つかって没収されてしまいました。しかし、兵士たちが粉砕して小箱に収めたのですが収めきれなかった遺骨を骨捨て場に遺棄したのを見届けた上で、再び12月25日のクリスマスの日にそこに忍び込んで苦心惨憺して遺骨を拾い上げたのでした。

こうして拾い上げた遺骨は、A級戦犯に対する世間の風当たりが強かったため別人の名前で、人目を避けて伊豆山中に安置されておりましたが、その後戦犯の汚名が消え、世間の見る目が変わってきた頃を見計らって、遺族、政財界の賛同を得、更に幡豆町の好意を得て、遠く三河湾から太平洋を展望できる三河湾国定公園三ケ根山頂に埋葬して墓石を建立し、昭和35年8月16日、静かに関係者と遺族が列席して初の慰霊祭が行なわれたのでした。東條由布子さんは毎年、ここに墓参りに来られるとのことでした。

彼女は7月10日の「サンプロ」で司会の田原氏と対談されたのですが、その様子は、7月11日の日記に掲載しております。私としては、彼女が声高に「東條はもはや戦犯ではありません。」と述べておられるのに反感を持ったのですが、田原氏の「しかし、貴方のお爺さんは、開戦を決定したのです。その責任をどう考えますか。」質問に「確かに私の祖父は開戦を決定しました。その事は深く反省しています。」と彼女が答えた場面で、田原氏の無神経にして歴史認識の甘さに憤慨し、由布子さんに同情を感じました。

私も、首相と陸軍大臣を兼務することで、憲兵を手下の如く使って自分に不利な言動をする人たちを取り締まり、民間人にも捕虜になるくらいなら自決することを奨めた東条英機は大嫌いですが、当時の情勢から判断すれば、日本は開戦せざるを得なかった状態にあり、開戦の責任を東条英機等元戦犯だけに押し付けるのは不当と考えております。昭和28年8月、遺族援護法が改正され、「旧敵国の軍事裁判で有罪とされた人は、日本の国内法では罪人と見なさない」という国会決議が与野党全会一致で可決され、遺族に対し年金と弔慰金が支給されております。従って、由布子さんが叫ばれているように、もはや戦犯ではありません。日本の死者に対する考え方は、「罪を憎んで人を憎まず」「万人、死して仏になる」ですから、東条英機等元戦犯たちに犯した罪が有ったとしても、それに手を合わせることに日本人としてそれほど違和感は湧いてこないと思うのですが如何なものでしょうか。


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