−日記帳(N0.1406)2005年10月20日−
日本、中韓両国との死生観の相違
−日記帳(N0.1407)2005年10月21日−
首相参拝が中止されても解決せず


「朝鮮の役」戦没者を敵味方無く祀っている高野山・金剛峰寺

日本人は他民族にくらべて宗教心に乏しいと言われます。結婚式や葬式は殆んどが仏式か神道、稀にキリスト教 で執り行われるので、日本人の殆んどは仏教徒か神道の信者かと思うとそうではないようです。新年は神式で祝い、盆は仏式で先祖を敬い、クリスマスはキリスト教で祝うことを考えれば、とても信仰心が篤いとは言えず、 宗教心に乏しいと言われても否定できないと思います。

しかし、そんな宗教心に乏しい日本人に、他民族、特に中国や韓国などには無い美徳が有ると思います。それは死者に対する考え方です。仏教では「何人も死して仏になる」、神道では「何人も死して神になる」としております。従って、死者の生前の行為・行動は不問に付し、平等に死後の魂を敬う、「罪を憎んで人を憎まず」の死生観によるものです。従って、例え生前に日本を戦争に導いた軍人だったとしても変わることはありません。また、その魂が祀られている場所が靖国神社であろうと、村の名も無い神社であろうと変わることはありません。

こうした日本人の死生観は死者が日本人であろうと外国人であろうとも、更にはその外国人が敵国の軍人であろうとも変わりありません。例えば、元寇の乱で亡くなった人たちは敵味方関係なく円覚寺に祀られ、秀吉の朝鮮出兵時にも僧侶を同行させて朝鮮の戦死者に読経をささげ、日露戦争で亡くなったロシア兵戦死者、広島の原爆で亡くなった米軍捕虜にそれぞれ慰霊碑が建てられております。また、高野山の「日本建国以来各戦役関係戦病死者供養塔」には、日清、日露、第一次大戦、日中戦争での戦没者が敵味方関係なく供養されております。

しかし、中国や韓国で戦没した日本人兵士の墓や慰霊碑は、釜山市立公園墓地内の日本人慰霊碑以外は殆んどその存在は伝えられておりません。もし、その存在が皆無に近いとするならば、それは中国・韓国と日本とでの死生観の相違によるものと考えざるを得ません。中国や韓国では儒教が主に信仰されているのに対して日本では仏教と儒教が入り混じって信仰されているために、その死生観に大きな差異がでております。

儒教の死生観では、死とは人間の精神を司る「魂」と、肉体を司る「魄」が分離すると考え、「魂」は中空をさ迷っており、それが合体すれば死者が蘇ると信じられております。韓国で土葬の習慣が根強く残っているのはそのためです。そして、この考え方が高じて墓に死体が埋葬されていなくても、それを祀ることでも死者が復活するとの考え方に発展しているように思われます。従って、自国内で戦没した日本軍兵士たちの墓や慰霊碑を建てることは、このような死生観からすれば考えられないことと思われます。

その考え方は中国だろうが、日本だろうが関係なく、従って日本に祀られている中国で戦って戦没した日本人兵士にも言えることで、彼等が憎んで余りある元A級戦犯の場合は尚更のことで、彼らを祀ることにすら嫌悪感を抱き、ましてや日本の最高責任者の小泉総理が参拝するとなれば、国を挙げてこれに反対して非難することは、このような死生観から考えれば理解はできます。しかし、あくまでもこれは中国・韓国の自国内での死生観に基づくものであり、死生観の異なる日本にこれを当てはめるのはとんでもない間違いであることを理解すべきです。このことについては明日触れたいと思います。


世界一大きいと言われる靖国神社の大鳥居

昨日の日記で、日本と中韓両国の死生観に対する相違点を採り上げ、彼等が日本人の靖国参拝を非難する気持は儒教を共通に信奉する中韓両国の死生観からすれば理解出来るものの、それはあくまでも彼らの国内での問題であり、これを海を越えて日中あるいは日韓の問題として採り上げ、日本政府あるいは日本政府を代表する小泉総理を非難することは不当な行為と言わざるを得ないと結論付けました。多分、彼らも死生観の相違点は知っていながらそれでも執拗に小泉総理の靖国参拝を非難し続けるのかについて掘り下げてみたいと思います。

まず、ひとつ考えられるのは、中国の中華思想と朝鮮半島民族、つまり高麗民族のプライドの高さです。大辞泉によれば、中華思想とは「儒教的な王道政治の理想を実現した漢民族を誇り、中国が世界の中心であり、その文化・思想が最も価値のあるものであると自負する考え方で、中国史における外国からの政治的危機に際して、しばしば熾烈な排外思想として表面化した」とあります。この思想故に、中国は長年にわたって「眠れる獅子」として世界のひのき舞台に登場できずにおりました。一方、高麗民族は自分達こそ世界一優秀な民族であり、海ひとつ隔てた日本はその恩恵に浴しているという実に高慢な国民意識です。

このような中韓両国の国民意識のもとでの対日感は日本に対する優越意識で共通しております。そのような国にこれまで植民地支配を受けたり、一方的に自国内に侵攻を許したりした過去の歴史が彼等にとっては屈辱で、我慢できないものと思われます。特に、中国は戦後、飢餓状態にまで荒廃した日本に同情して戦後賠償を放棄した経緯もありますので尚のことと思います。

次は、儒教特有の「勧善懲悪」による報復主義です。 儒教では、この世には善と悪しか存在しないとの二元論を説いており、日本は悪で、中国や韓国は善と考え、勧善懲悪の倫理感により敵である日本にはには絶対不寛容であり、日本を永遠に敵と考えて復讐することを誓うのが彼らの国民性です。

このように考えていくと、中韓両国の靖国神社に対する思いには並々ならぬものがあり、極端なことを言えば、靖国神社そのものの存在を問題にしかねず、小泉総理云々では収まらなくなることも考えられます。つまり、 靖国神社に祀られてる元A級戦犯の「魂」と寺に祀られてる「魄」が、小泉総理のの靖国参拝で招魂され、励起され、寺に祀られている遺骨である「魄」と合体して蘇えると考えておりますから、招魂者は何も小泉総理に特定化されるわけではないと考えられるからです。ポスト小泉が参拝すれば同じ問題が起こるでしょうし、場合によっては招魂者のレベルを閣僚から国会議員ぐらいまで下げることも充分有り得ます。

このように考えていくと、例え小泉総理が参拝を中止しポスト小泉もそれに続いても中韓両国の日本を悪と見做して、日本を永遠に敵と考えて復讐することを誓う彼らの国民性に変わりは有りませんから、この問題が改善されることは有り得ないと思われます。つまり、靖国問題は誰が参拝したかが問題ではなく、そこに元A級戦犯等が祀られていることが問題で、更に極端なことを言えば中韓両国にとって忌まわしい人物を神社に祀ることが問題視されかねません。これでは、日本の良き風俗習慣に対するエゴイスティックな干渉以外のなにものでも有りません。従って、小泉総理が参拝を中止することに何ら意味が無く、むしろ内政干渉に対して屈したことになり国益に反する行為と思います。


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