−日記帳(N0.1430)2005年11月13日−
新艇の進水式
−日記帳(N0.1431)2005年11月14日−
蘇我入鹿邸遺跡発見?


新艇の「まだか丸」

これまで私は2隻のゴムボートを所有しておりましたが、1隻は大きすぎて一人で持ち運びするのが困難であること、もう1隻は大きさはほどほどですが老朽化して補修個所が無数に出来て、そのうちのいくつかは漏れが止まらなくなり、海の上で注気して沈むのを防いでいることから、釣り仲間から「カチカチヤマ丸」と揶揄されるようになりました。このような状態では来年の船検に合格するのは難しいと考え新艇を購入することは先日の日記でも触れました。

そこで、どうせ購入するなら船検、免許不要の全長3m未満、2馬力以下の船外機の組み合わせにすること、そしてゴム材からプラスチックス材に材質変更すること、フロアーを木製からプラスチックスエアマットに変更することを条件にして探索したところ、上記のJoycraft社製のボートが見つかりました。全てが揃いましたので漸く今日の進水式に漕ぎ着けました。

従来のゴムボートは柔らかいのでコンパクトに折り畳むことが出来ますが、今回のプラスチックスボートは硬いので完全に空気を抜いた上でうまく折り畳まないとフワフワに嵩張って車のトランクに入りきれなくなるという欠点は有りますが、硬い分水切りがよく快適な走行が得られました。

特に、注気(空気を入れて膨らますこと)が従来に較べてずっと楽になりました。従来は高容量・低圧型と低容量・高圧型の2種類のポンプが必要でしたが、今度は一つのポンプにこの2種類のポンプが装着されており途中で自動的に低圧から高圧に切り替えられるシステムになっているからです。

また、従来は木製の底板を固定するのが厄介でしたが、今度はプラスチックスエアマットですので、注気するだけで済みますので簡単なのと、ボート本体に穴が開いてもこのラスチックスエアマットの浮力で沈むことはなくなり安心でもあります。

この日は、勿論、進水式だけではなく、知多湾の大井沖にキス、ハゼ、アジを釣りに行ったのですが、何故かボーズでした。私としては、進水式が順調にいっただけで満足し、早々に帰港し、今度は折り畳みが岸辺でうまくいくか否かをチェックしおてみました。幸い何とか、車のトランクに入れることが出来るくらいにコンパクトに折り畳むことが出来ました。以上で無事進水式を終了させることが出来ました。


甘樫丘地区で発見された掘っ立て柱建物跡

当時、天皇家をも見下し、時の皇極天皇(重祚の女帝で後の斉明天皇)ですら愛人にしていたほどに権勢をを誇っていた蘇我入鹿は、この日三韓(当時の朝鮮半島は百済、新羅、高句麗の三国に分かれておりこれを三韓と呼んでいた)の使者が天皇に謁見する行事に出席し、正面に座っていた皇極天皇を見やりながら妖しげに笑みを浮かべて目配せしました。これに気付いた皇極天皇も周囲を気にしながらもそっと微笑み返しました。やがて、宮中芸人たちの踊りが始まり、10人ほどの男たちが踊りながら並み居る公家たちの装束の一部を召し上げては返す素振りをはじめ一堂の失笑を誘っておりました。

やがて、そのうちの一人が入鹿の前に踊り出て、入鹿が差している剣を召し上げようとしました。入鹿はそれも踊りのうちと思い、笑いながら召し上げられるのに抵抗しませんでした。芸人が入鹿の剣を取上げたその瞬間、さきほどまで踊っていた他の芸人たちが入鹿の周囲を取り巻くやいなや、母、皇極天皇の傍に座っていた中大兄皇子が自らの剣を抜いて入鹿に切りかかり、肩から胸にかけて振り抜きました。血しぶきをあげて倒れた入鹿は、皇極天皇に助けを求めて苦しげに手を上げました。実は、中大兄皇子の腹心の鎌足(後の藤原鎌足)が手の者を宮中芸人にすり替えていたのです。

その時、皇極天皇は声こそ出さなかったものの、我が子の暴挙を嗜めるかのように両手を上下に振るいました。中大兄皇子は「入鹿は天皇をないがしろにし、皇子を次々と殺していこうとしています。天皇家よりも入鹿が大事なのですか?」と、母 皇極天皇に向かって叫びました。息子から厳しい言葉を浴びた皇極天皇は、無言のままその場を立ち去ってしまいました。こうして天皇に見捨てられた入鹿は 手の者に滅多切りされてその場で果てました。

このことを豪華な蘇我一族の豪邸にいた入鹿の父・蝦夷もおじけづいて邸宅に火を放って自殺し、こうして蘇我一族は滅亡し中大兄皇子の時代に移っていったのです。この事件がいわゆる大化改新(乙巳の変)で、これによって中大兄皇子が権力を握り、大化という年号をつけて公地公民制を柱とする改新を行い蘇我氏などの一部の豪族が所有していた土地を取り上げて天皇家や国の所有とし、天皇家の権力を揺るぎ無いものにし、母の皇極天皇を退位させ自らは皇太子として政治の実務を執りました。これは50年前の聖徳太子の例を見習ったものでした。・・・・・・・・・・・

以上は、本サイトの雑感記の「額田王と飛鳥時代」からの引用文ですが、実はこの蘇我一族の有力者、蘇我蝦夷・入鹿の親子が住んでいたと思われる豪邸らしき建物の跡が、奈良県明日香村の甘樫丘の東南の麓で発見されたとのビッグニュースが、今日付けの中日新聞朝刊の一面トップで報道されました。古代史ファンの私にとっては胸躍る思いで記事を読み漁りました。

その現場は甘樫丘の東麓で、入鹿暗殺の舞台となった飛鳥京跡の北西約600m、蘇我氏が建立した日本最古の寺、飛鳥寺からは南西に約600mの位置にあり、背後の尾根を登れば入鹿が殺害された飛鳥板蓋宮をはじめとする歴代天皇の宮殿が造られた飛鳥京跡が眼下に広がるまさに一等地です。

現在、奈良文化財研究所は、国営飛鳥歴史公園甘樫丘地区の造園に伴う遺跡確認調査を行なっており、両側を尾根に挟まれた6000uの平地の中の725uを調査したところ、五棟の掘っ立て柱建物跡と一列の塀跡を確認したと昨日公表しました。掘っ立て柱建物のうち規模が確認できたのは南北3.6m、東西10.5mの1棟だけでしたが、柱筋に沿った溝(深さ20〜30p、幅80p)には、7世紀前半の土器や、焼けた壁土や炭が埋まっていたとのことです。

日本書紀には「蘇我蝦夷、入鹿父子は甘樫丘に邸宅を並べ建て、蝦夷邸は上の宮門、入鹿邸は谷の宮門と呼ばれた」と記述されております。今回見つかった掘っ立て柱建物群跡は丘の尾根を切り開いて整地された谷に立地していることから蘇我蝦夷・入鹿邸である可能性は高いと奈良文化財研究所は付言しております。

日本書紀では入鹿暗殺の翌日、飛鳥寺(現・奈良県明日香村飛鳥)に陣取った中大兄皇子らの軍勢に取り囲まれた蝦夷が邸宅にあった記録を焼いたと記述しておりますので、自邸に火を放って自害し、入鹿邸も同時に焼失したものと推測されており、平成6年に現場近くで、7世紀中頃の土器や焼けた建築部材が大量に出土していることから、今回見つかった焼け跡とあわせ、蝦夷自害の際の火災の可能性が高まってきました。もし、それが事実なら大化の改新と言う歴史上の大事件が実証されるだけでなく、これまでその記述内容に疑問符が付けられていた日本書紀の信憑性が確認されることになり歴史的な大発見と私は思っております。


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