−日記帳(N0.1462)2005年12月15日−
耐震強度偽装証人喚問に思う
−日記帳(N0.1463)2005年12月16日−
名将 仰木氏の逝去を悼む


今や、全国的な話題になっている耐震強度偽装事件に関する証人喚問が昨日、衆院国土交通委員会で行なわれ各TV局が生中継、特にNHKはその殆んど生中継しました。午前中に一連の耐震強度計算を偽装した張本人の姉歯秀次元1級建築士、午後はその偽装された強度計算書に基づいて多くの欠陥マンションを建築した木村建設の木村盛好社長、同社の元東京支店長の篠塚明氏 そして最後にその偽装された強度計算書に基づいて多くの欠陥ホテルの建設に対して仲介・指導をした綜合経営研究所の内河健代表取締役所長が証言席から与野党議員からの質問に応ずる形で相次いで証言しました。この4人対する質疑応答は昼休み挟んで午前9時半から午後6時近くまで7時間を越える長時間にわたりました。

その大半を視聴した私の感想は次のとおり厳しいものでした。

1.議員の質問がなっていない
2.姉歯証人以外の証言者の証言はなっていない
3.メディアのの当該事件に対する論評がなっていない

1.に関しては特に自民党議員の質問がなっておりませんでした。 自民党には充分長い質問時間が有るのに、例えば一番最初に姉歯に質問をした同党の渡辺具能議員は既に週刊誌等で報道されている周知の事実を得意満面に大演説し続けてまともな質問をしないまま40分もの持ち時間を無駄使いしてしまういました。 自民党・森派には本事件に関与する会社からの政治献金の事実が報道されており、このような無意味な質問は自分たちの親分に火の粉が降りかからないようにするための時間稼ぎしていると勘ぐられてもしかたないように思われます。この人の「具能」の名前を見て「具」が「愚」にあるいは「低」に映ったのは私ばかりではなかった」と思います。

まともな質問をしたのは、民主党の馬淵澄夫議員ただ一人だったように思います。共産党も社民党も意気込みは感じられましたが所詮、時間不足で意味の有る質疑応答には至りませんでした。馬淵議員は事前に精力的に取材した多くの資料の中から、木村建設の子会社の平成設計に対し鉄筋量を減らすように具体的に指示した綜合経営研究所の四ヶ所猛氏の自筆メモを内河健所長に示して追求したのは見事でした。それてまで、「絶対、断じて、一切・・・有りません」と強気の言葉を発し時には薄ら笑いして注意を受けるほどに平然、悠然と答えていた所長の顔が一瞬引きつり、明らかに当惑した表情をみせ、「書類は見たことがないので早急に調べてご回答する」と答えるに留まりました。

2.に関しては、特に篠塚明元支店長の証言はまったくなっておらず支離滅裂でした。これだけいい加減な証言に対して、その場でその矛盾を糾す質問が続かなかったのは残念で、この辺りにも質問者のレベルの低さが覗われます。もし法定でこんな証言したら凡庸な弁護士でもその矛盾を容易に論破できることでしょう。

篠塚証人は姉歯証人に鉄筋の量を減らすように指示したことを認めており、その背景が姉歯証人の「鉄筋の量を減らすように強度計算しなかったら以後仕事をまわさないと脅迫された」の証言に有ることは明らかです。鉄筋の量を減らせば耐震強度が低下し、「震度5強(≧震度5.5)で損壊がなく、震度6(震度6.0〜6.9)でも一部損壊で済み、倒壊しないものを1としこれを最低基準とする基準強度とする建築基準法を犯す恐れが有ることは自明の理で、法令違反の有無を確認もせずに強引に販売に踏み切ったのは建築基準法に明確な罰則規定が無いことを彼らが知っていたからと思われます。

木村証人の証言は証言以前で、証言とは程遠い内容でした。質問の意味が判らず右往左往するのは故意にそのように装っているのか、本当にボケているのか判りませんでしたが、どうも篠塚証人との事前の打ち合わせ内容を忘れたのが真相のようで、 篠塚証人がハラハラしながら木村証人と目配せしていたのが印象的で落城寸前のところで持ちこたえたのは、木村証人が「命以外は被害者のために全て差し出す」と答えたからで、ここで追求の手が緩んだように思われました。

最後に出てきた内河証人は、嘘をつく奴ほどよく喋るとの揶揄がぴったりの、その細長く角ばった顔つきがキリギリスを思わせ、奥さんと離婚してまでも財産を守ろうとする姿勢は如何にも守銭奴面した証人の中では最年長の欲張り爺さんでした。 「鉄筋使用料が1平方メートル当たり119キロになっている。75〜80キロで収めてほしい。杭は1本でも少なければ喜ばしい」という自分の腹心の部下の自筆のメモには、流石の欲張り爺さんも慌てたのか、唇は振るえておりました。この爺さん、「木村証人のように一命を賭して全財産を投げ打って補償に応ずる気は無いのか」との質問に「現在、対策を検討中」とお茶を濁しておりましたので、どうやら天国、いや地獄までお金を持っていくようです。私には、この爺さんが悪玉の張本人に思えてしかたありませんでした。

3.に関し、日本のメディアの姿勢には失望しました。馬淵澄夫議員が個人の立場であれだけの有力な資料を入手できたのに、個人よりは遥かに豊富な調査網をもつメディアがさしたる取材もせずに傍観者然としているからです。個人で出来ないこと、政府で出来ないことをするのがメディアの務めであり、またメディアでしか出来ないと思います。恐らくこれら4人の承認を刑事告発してもザル法に近い建築基準法のもとではさしたる罪には問えないと思われます。ここは、弱い立場の被害者の住人が民事告発できるようにサポートすることを期待したいと思います。


あの黄金時代の元西鉄の正二塁手で、近鉄・オリックスで監督を務めた仰木彬氏が今日急逝したとのニュースが、たまたま視聴していたテレビ番組の中でアナウンサーが「悲しいニュースが只今入りました」として報じられ驚きました。直接の死因は呼吸不全とのことでした。呼吸不全は肺の機能が低下して新陳代謝に必要な酸素を取り入れることが出来ない場合に起こりますので酸素吸入器を着用すれば大事には至らないはずです。仰木彬氏の場合は酸素呼吸器を着用していたのでしょうか、それとも着用していたのに効果が無かったのでしょうか。呼吸不全の原因は肺がんとのことですから止むを得なかったのかも知れませんが、つい先日まで元気な姿を見せていただけに一瞬信じられませんでした。

仰木彬氏を最初に知ったのは、あのONがいた巨人を打ち砕いた西鉄ライオンズの二塁手だった頃でした。元々、西鉄に投手で入団しながらKOされるや三原監督から「お前は投手ではなく二塁手がいい」と言われてそのゲームで急遽二塁手にコンバートされたと言う信じられないような話が残っております。当時の西鉄のナインは黒澤明監督の「7人の侍」に出てくる野武士集団を思わせる、中西、豊田、大下、関口、稲尾、西村…の錚々たるメンバーでした。そのメンバーの中で仰木彬氏はいぶし銀的な存在でした。

現役では、1954年から1967年までの14年間に1328試合に出場して3501打数、800安打、打率.229、326打点、70本塁打の成績は並みの成績で、一流ではありませんでしたが彼の才能は現役引退後のコーチ、監督になってから発揮されました。監督としては、1988年から今年の2005年までの14年間で1856試合を采配して988勝815敗53分、勝率.548、リーグ優勝3回、日本一1回という立派な成績を残しております。

1967年に引退してそのまま2年間西鉄のコーチを務めた後、1970年に三原を慕って近鉄バファローズに移籍。近鉄では18年間コーチを務め、1988年に監督に就任。黄金時代の西武と激闘を繰り広げ、1989年にオリックス・西武との三つ巴を制し、2位オリックスにわずか1厘差でリーグ優勝。1992年に近鉄監督を辞任。近鉄監督時代には吉井理人・野茂英雄・中村紀洋を育て上げた。1年間ABCの解説者を務めた後、1994年にオリックス・ブルーウェーブの監督に就任し、イチロー、長谷川、田口等のの素質を見出だし、彼等のメジャー挑戦にも一役買っております。この日、たまたま米国に居たイチローは訃報を聞いて絶句したと言われます。

1996年に監督として初の日本一に輝き、イチローとともに喜びを分かち合っていた姿は今でも忘れられません。2001年限りでオリックス監督を勇退し、奇策による好采配は恩師三原にあやかり「仰木マジック」と呼ばれ、2004年に野球殿堂入りし2005年に新生オリックスで指揮を取り3年連続最下位のチームを4位に浮上させましたが高齢による健康面の問題から1年で退任し、球団シニア・アドバイザー(SA)に就任したばかりでした。 合掌。


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