−日記帳(N0.1464)2005年12月17日−
「男たちの大和」公開に思う
(戦艦大和物語(7))
−日記帳(N0.1465)2005年12月18日−
サンパウロが初代王者に


太平洋戦争末期に沖縄方面に海の特攻として出撃し米軍機の猛烈な攻撃を受けて鹿児島県沖で撃沈された当時の世界最大の戦艦大和の悲劇を題材にした映画「男たちの大和」が今日ロードショー公開されました。戦艦大和については、この日記でも次のように採り上げております。

戦艦大和物語(1) 名曲「群青」に寄せる思い
戦艦大和物語(2) 戦艦大和沈没60年周年
戦艦大和物語(3) 護衛駆逐艦物語(1)
戦艦大和物語(4) 護衛駆逐艦物語(2)
戦艦大和物語(5) 護衛駆逐艦物語(3)
戦艦大和物語(6) 護衛駆逐艦物語(4)

戦艦大和は、日本の歴史上最大の無駄使いであり、建造された時点でその無駄使いのレベルは、万里の長城、ピラミッドに匹敵するとして「世界の三大無用の長物」と揶揄されたように悲しい運命を背負って生まれ、そしてその最後も悲しく哀れでした。日本海軍による真珠湾攻撃の成功は戦艦、重巡洋艦等の主力艦からの砲撃ではなく、空母から発進した艦載機による空爆による作戦であったことはその後の海戦の主役は戦艦を主力とした砲撃艦隊ではなく空母を主力とした機動艦隊であることを皮肉にも暗示しておりました。

確かに戦艦大和には着弾距離40km、20km先の艦船をも撃沈可能な46センチ砲が装備されておりましたが、当時の照準技術ではそのような遠方の目標に精確に着弾させること及び最高速度27ノット(時速51km)では30ノット以上で航行出来る敵の護衛艦隊を捕捉することも不可能に近い上、大量の燃料を必要とする戦艦大和がまさに無用の長物でした。現にこの46センチ砲による砲撃は殆んど成果を挙げることは有りませんでした。

1945年4月当時、沖縄海域には米・太平洋艦隊の強力な大機動艦隊が終結していましたが、レイテ沖、ミッドウエー等の海戦で主力艦を失いほぼ全滅状態にあった日本海軍は敵艦隊を正面作戦で迎え撃つことは物理的に不可能と判断し、戦艦大和を沖縄に突入させて陸上を砲撃して敵上陸部隊を撃滅するという自殺行為にも等しい「天1号作戦」を立てて、戦艦大和を僅かな護衛艦とともに徳山沖から出撃させたのでした。およそ無謀にして無意味なこの水上特攻作戦を命じられた伊藤整一・第二艦隊司令長官(映画では渡哲也が扮している)は当初反対を唱えたものの、大和に死に場所が与えられたものと覚悟してこの作戦の指揮をとり、大和と命運をともにしたのでした。

事前に暗号を解読して大和の出撃を察知していた米軍は、待ってましたとばかりに空母から艦載機を発進させ空から大和とその護衛駆逐艦を爆撃したのでした。その結果、大和は爆弾6発、魚雷10本以上の直撃を受け、1945年4月7日午後2時23分、鹿児島県坊ノ岬沖160kmの地点で2,498名の乗組員と共に430メートルの海底深く沈没し、6年前にその場所はテレビ朝日による潜水調査によって確認されましたが艦内に残された乗組員の遺体とともに静かに眠っております。

この映画では、CGだけでは作り出せないリアルな質感を求め、2004年12月より3月26日クランクイン直前までの約4ヶ月を要して広島県尾道市向島町に総額6億円をかけて全長190m、最大幅40m、艦橋の高さ15mの実寸大の大和を作って撮影が行なわれました。従って、そのリアルな迫力は相当なものと思われますので、戦争を知らない方々が見ると、その巨大さ、凄さにばかり気をとられてこの映画の意図する、戦争の空しさ、悲運、悲劇を理解しないまま見終わってしまのではと気になります。現在の日本の繁栄がこの戦争で亡くなられた多くの人たちの犠牲の上になりたっていることを、この映画を通して是非とも理解して欲しいものです。
順位 チ ー ム 名
(代 表 地 域)
チーム旗 本拠地
(国   名)
成 績 設立年
サンパウロFC
(南    米)
サンパウロ
(ブラジル)
2勝0敗 1935
リバプールFC
(欧    州)
リバプール
(イングランド)
1勝1敗 1892
デポルティボ・サプリサ
(北中米・カリブ)
サンホセ
(コスタリカ)
2勝1敗 1935
アルイテハド
(アジア)
ジェッダ
(サウジアラビア)
1勝2敗 1929
シドニーFC
(オセアニア)
シドニー
(オーストラリア)
1勝1敗 2004
アルテハド
(アフリカ)
カ イ ロ
(エジプト)
0勝2敗 1907


サッカーの第一回・世界クラブ選手権大会(FIFAクラブワールドチャンピオンシップ トヨタカップ ジャパン2005)が日本で開催(東京、横浜、豊田)、上表に示すようにサンパウロFCが優勝し、記念すべき初代王者になりました。この大会は従来欧州王者とブラジル王者との間で争われていたトヨタカップ(ヨーロッパ/サウスアメリカ・カップ)を発展的に解消して6大陸の王者による世界クラブ選手権大会に移行することになり、国際サッカー連盟(FIFA)主催のもと、自動車生産量世界一を目指すトヨタ自動車が契約期限の2006年まで継続して開催権を維持することが決定し、今年がその記念すべき第一回大会となりました。

このようにW杯と並んでサッカーの世界規模の試合を日本で見れるのはトヨタ自動車のお陰ではありますが、それにはいろいろと経緯が有りました。25年前、衝撃的なニュースが日本に飛び込んできました。当時、世界のサッカー勢力図を二分する欧州王者と南米覇者が世界一をかけて対戦する、ヨーロッパ・サウスアメリカ杯がトヨタカップと名を改めて毎年12月に日本で行うことが発表されたからです。当時、日本で本場のサッカーに接することはできなかった日本サッカー界にとっては、これ以上無い嬉しいニュースでした。

第1回大会は1960年、レアル・マドリッド(スペイン)とペニャロール(ウルグアイ)がホームアンドアウェー方式で行われましたが、1960年代後半からファンが暴走し、ラフプレーの応酬となり、197l年には出場権をもっていたアヤックス(オランダ)がついに辞退、 代わって欧州2位のパナシナイコス(ギリシャ)が欧州代表として出場するという異常事態が起こり、大会は開始20年にして瀕死の状態にありました。そして、1980年、(財)日本サッカー協会はUEFAとCONMEBOLの強い要請を受けて、この大会の行き詰まりを打開するため第3国の日本での開催を受諾しトヨタ自動車の後援を受けて新たに「トヨタ ヨーロッバ/サウスアメリカ カップ(トヨタカップ)」として開催することが決定したわけです。

しかし、その後1回戦しか出来ないこと、日本までの距離が長過ぎることが問題になり、再び元のホーム&アウエー方式に戻すべきとの意見が台頭してきたことに加え、欧州と南米だけで世界一を競うことの矛盾が指摘されるに至って、この際、トヨタカップを廃止して6大陸の王者による世界クラブ選手権大会に移行することとなり、昨年をもってトヨタカップは廃止されたわけです。


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