−日記帳(N0.1489)2006年01月11日−
野州高校物語(1)
(レスリング出身の異色の監督、山本圭司さん)
−日記帳(N0.1490)2006年01月12日−
野州高校物語(2)
(湖国の天才軍師、コーチの岩谷篤人さん)


野州高校サッカー部監督の山本圭司さん

山本圭司(42)さんは滋賀県立水口高校出身で、高校時代にレスリングで国体上位入賞を果たした実績を生かすべくレスリングの名門、日本体育大学に入学してレスリング選手を志望しました。日本体育大学レスリング部は日本のアマチュアレスリングのメッカ的存在で多くのアスリートを輩出していることで知られております。彼の同期生には1988年ソウル・92年バルセロナ五輪代表の原喜彦さん(新潟・県央工高監督)や、静岡・飛龍高校の監督として同校を全国高校選抜王者に育てたことのある井村陽三さんがおります。

しかし、日本体育大学では残念ながら学生王者には縁遠い実績しか残せませんでした。学業は優秀で主務に推され4年生の時にはドイツのケルン体育大学との交換留学生の試験に合格し、1983年に卒業すると1986年に同大学と提携していたドイツ体育大学ケルン校に交換留学生として派遣されました。しかし、ここで彼の人生は大きく転換することになります。それは、現日本サッカー協会・技術委員長の田嶋幸三氏氏との出会いでした。

山本圭司さんは第24回(1988年)ソウル大会に選手としての出場は無理としてもレスリングの指導者となるべく、はるばるドイツまで来たのに彼のレスリングに対する情熱を萎えさせてしまうある出会いが有りました。それは、彼と同様に筑波大学からこの大学に留学していた5歳年上の田嶋幸三氏との出会いでした。数少ない日本人同士の留学生ですから二人は直ぐに親しくなりました。の田嶋幸三氏は浦和南高校時代にキャプテンとして高校サッカー選手権で優勝した後、筑波大学に入学し日本代表にも選ばれ(国際Aマッチ出場7試合、1得点)。大学卒業、日本サッカーリーグの古河電工(現ジェフユナイテッド千葉)に所属し1983年から1986年までの2年半この大学に留学していたのでした。

山本圭司さんは先輩の田嶋幸三氏の運転手の役をつとめながら、サッカーについて田嶋幸三氏からいろいろ話をきいているうちにサッカーに対する興味が湧いてきたのです。そして、休日にブンデスリーガのケルンFCのゲームを観戦しているうちにカルチャーショックを受けてしまいました。何万ものサポーターの声援を受けて生き生きとプレーする選手たち、そして見事な個人技にすっかり魅せられてしまったのです。こうして、彼はレスリングの選手からサッカーの指導者としての道に志望を変えたのでした。

山本圭司さんは帰国すると、故郷の滋賀に帰り滋賀県立水口東高の教員になりました。それは同高が滋賀県では彼の出身校の水口高と並んでサッカーの有力校だったことがその理由でした。そして、2000年に同じ滋賀県立の野洲高校 に転任しました。この高校は昭和19年4月に滋賀県野洲郡立女子農芸学校として発足し、昭和23年7月 学制改革により滋賀県立野洲高等学校となり現在に至っておりますが、サッカーでの実績は水口東高ではありませんでしたが、ここで彼は、またまたある出会いに恵まれたのでした。それが岩谷篤人氏との出会いでした。


セゾンFC監督兼野州高校コーチの岩谷篤人さん

滋賀県に、「滋賀・セゾンFC」と言う名のサッカークラブがあります。将来Jリーガーを目指す中学生以下のジュニアユースクラスがメンバーとなって最高位の「U−15高円宮杯ジュニアユースサッカー選手権」を争そうわけで、全国に100以上のクラブが有ります。そのうち有力なクラブはJ1やJ2傘下にあり、中でもヴェルディ、マリノス、エスパルスのクラブが有名ですが、その中でJ1やJ2傘下でないのに頑張っているクラブがあります。その代表的存在が「三菱養和」と「セゾンFC」です。 

「三菱養和」は三菱グループが出資する大きなクラブですが、「セゾンFC」は滋賀県にある個人が運営する弱小クラブです。その個人が岩谷篤人(54)さんで知る人ぞ知るサッカー界の孤高の天才軍師です。今回の野州高校の全国制覇はこの人抜きに語ることは出来ません。1984年に「セゾンFC」を創設し、日本クラブユース選手権大会では滋賀予選で7回優勝して関西大会出場し1988年、1992年にベスト8、1993年には優勝しております。またユース大会最高峰の高円宮杯全日本ユース(U-15)選手権大会では滋賀予選で5回優勝して 関西大会に出場し、1994年に優勝、1996年3位、2005年にベスト8の素晴らしい成績を残しております。 その結果、この地方の弱小クラブから実に6人ものJリーガーが輩出されていることから彼の指導者としての手腕が高く評価されているわけです。

これだけ有能なサッカー指導者でありながら、彼の選手時代の成績はネットで検索してみたのですが、1951年10月18日京都生まれで、抜群のセンスとテクニックで点は取れるしゲームも作れスピードもある万能型のMFとして活躍し、1968年にインターハイ出場、国体出場したことぐらいで詳細はよく判らないのです。これは、セゾンFCでも4、5年先を考え、野州高でも山本監督を立てて黒子に徹する彼独特の人生観によるもの思われます。

そして、この6人のJリーガーの出身校を調べてみると、奇妙なもとに1997年までは全員が静岡学園、1998年以降は全員野州高に進学しているのです。つまり、1998年を境に岩谷篤人さんの考え方が変わっていることが認められます。実はそれが山本圭司さんの第二の出会いと関係が有るわけです。山本圭司さんは自分がサッカー選手ではなかったことから、技術面の指導力に欠けていることを自覚しており、これを補うためにはどうしても技術面を熟知したコーチを招聘する必要が有りました。そこで、故郷の先輩でもある岩谷篤人さんの実力をよく知っていたことから、この人以外に適任者はいないと考え、水口東高から野州高校に転任して同校サッカー部監督に就任するやすかさずセゾンFCに岩谷篤人さんを訪ねてコーチ就任を直訴したのでした。

岩谷篤人さんは彼のひたむきなサッカーに賭ける情熱を理解し、山本圭司さんの懇願を受け入れ三顧の礼をもって野州高のコーチに迎えられました。その時、山本圭司さんは岩谷篤人さんに「岩谷さん、セゾンー静岡学園の路線を何とかセゾンー野州高校に変えて頂けませんか」と懇願したのでした。「そりゃー俺に言われても困るな、生徒に聞いてくれ」これが岩谷篤人さんの答えでした。しかし、岩谷篤人を慕うセゾンFCの岩谷チルドレンたちが、敢えて親元を離れて静岡に行くことよりも故郷の高校のコーチに就任した岩谷篤人を慕って野州高に進学するようになったのは当然の成り行きでした。

こうして、セゾンー静岡学園の路線は岩谷篤人さんの野州高コーチ就任を契機にセゾンー野州高に変わり、野州高校は一躍全国区のサッカー強豪校になっていくのでした。その前触れは2002年に初めて全国大会に出場し、あと1勝で憧れの国立の準々決勝で優勝した市立船橋に惜しくも敗れたもののベスト8に輝いたことにありました。このように、山本圭司監督、岩谷篤人コーチと野州高の関わりを辿っていくと、今回の野州高優勝はフロックではなくて当然の成り行きであったとさえ思われるのです。やはり、高校サッカーにはよき指導者の存在が欠かせないようです。かって私の母校藤枝東の黄金時代を築き上げた長池実監督、中高一貫教育で静岡学園を全国有数の強豪校に育て上げた我が故郷焼津市出身の井田勝通監督、優勝常連校、国見高の小嶺監督などがその典型と思います。

岩谷篤人さんの指導スタイルは独特なものがあり、口で分かりやすく事細かに説明する反面、ヒントだけ言い選手に考えさせたり、自分が実際にグランド上でプレイして見本を見せたりと臨機応変に状況によってそのスタイルを変えております。野州高の全国制覇祝勝会後のミーティングで彼は次のように選手たちに語りかけております。このような言葉は恐らくセゾンFCでも語りかけているはずで、この言葉に感動して岩谷チルドレンになるのも当然の成り行きでした。

「あのな俺な・・・お前ら好きやわ。いい奴らやお前ら。いいもん見せてもうたし。お互い約束守れてよかったな。一年生の時に全国制覇する言うてな。本当によかった・・・・。これからもまた仲良くしよなみんなな。これで終わりとちゃうで。俺らは・・・・・同じ絆の中で戦ってた。俺も戦った。だから今フラフラ。お前らもそうや思うけど。この絆はさ、一生・・・・・。俺はさ、早よ死ぬかもしれんけどな・・・・。俺が死ぬまで・・・友達でいような」


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