−日記帳(N0.1511)2006年02月02日−
白木屋とホテルニュージャパン
−日記帳(N0.1512)2006年02月03日−
節分の日に鬼を思う


1662年(寛文2年)に大村彦太郎によって創業された小間物商が江戸時代に日本橋で大呉服店となり、大名・大奥などを顧客にして繁盛し、明治になって白木屋というデパートになり、日本のデパートで始めてエレベーターを導入し話題になりましたが、1932年(昭和7年)にクリスマスイルミネーションを出火原因とする火災が発生して14名の死者を出す日本初の高層建築物火災となりました。当時のデパート店員は和服で下着を着けていなかったため裾の乱れを気にしてロープによる救助に躊躇したことで犠牲者を増やしたと言われ、これを契機に日本女性に下着を定着させる契機になったことでも知られております。

戦後、日本橋交差点の好立地にありながら業績が伸び悩んでいた白木屋に対し、当時繊維関係の商社を経営していた横井英樹氏が1949年に株の買い占めを行い、1953年に日活社長の堀久作氏と共謀して白木屋に対し両氏の役員就任等を迫まりましたが世論の反発もあって不調に終り、堀氏は白木屋株を山一証券へ売却してこの一件から手を引きましたが、1954年遂に白木屋経営陣と横井氏は全面対決し両陣営がそれぞれ株主総会を実施して役員を選出するという異常事態になりました。

しかし、横井氏も金策つきて東急グループ総帥の五島慶太氏に支援を要請した結果、五島氏は事態の収拾を図り横井、堀両氏の保有株を買い取って東急が業績不振の白木屋を再建する目的で買収する形を取り、白木屋は東急の子会社の東横百貨店と合併しました。そして1967年に東急百貨店と改名し昨年4月にTOBと株式交換により東急の完全子会社となりました。50年以上も前に、堀江元ライブドア社長、三木谷楽天社長等が画策した敵対的M&Aが百貨店を舞台に行なわれており、今再び老舗百貨店の松坂屋の株を村上ファンドが買収を画策していることに興味が湧いて白木屋を引っ張り出してみました。また、この問題に関与した山一證券が後に経営破たんし、横井氏が後に買収したホテルニュージャパンも火災を起すなど不幸が連鎖したのも奇しき縁でした。

ところが、また同じようなシーンが50年経った現在に繰り返されております。白木屋の乗っ取りに失敗した横井氏は、今度はホテルニュージャパンを買収しましたが、そのホテルが1982年(昭和57)年2月8日深夜3時25分、英国人が宿泊していた部屋から出火、非常用設備の不備のためまたたく間に燃え広がり従業員による避難誘導もなかったため、韓国人等死者33名・重軽傷者34名(内消防隊員7名)の大惨事となりました。実は、このホテルはスプリンクラーはまともに設置されておらず、防火扉はヒューズが切れていて不作動、自動火災報知器はスイッチが切られていて動作せず、非常放送設備は故障で使用できず、ということでなんともひどい防災体制で当局からも再三の指導を受けていたのに全く改善がされていませんでした。

当日の早朝、詰め掛けた記者に対して、トレードマークの蝶ネクタイで現れた横井社長が拡声器を持って「早朝よりご苦労様です」とさして悪びれた表情も見せずに開き直って記者会見した様子を、先日、「時速60キロで走るところを67、68キロで走っていいと思っていたのは事実」と笑みさえ浮かべて語った東横イン社長、西田憲正氏の記者会見を観て30年の歳月を越えて思い出しました。やはり同じことが数十年を経て繰り返されたのです。

また、不思議なことにこのホテルニュージャパンには不幸な事件がつきまとっているのです。このホテルは2.26事件で反乱軍が立ち寄った料亭「幸楽」の跡地に建てられ、ホテルの地下でプロレスの力道山が暴力団に刺され後に死亡し、そして火災になり、その後も買い手がつかず、無理に買い取った千代田生命は倒産、横井社長の邸宅を買い取った鈴木その子さんが急死しているのです。現在は、地上38階のプルデンシャルタワーレジデンス(超高級賃貸マンション)になっております。

尚、東急はその前身が東京横浜電鉄ですので略すと「東横」、東急百貨店の前身が東横百貨店だったことから東急と東横が同一視されますので、今回問題を起した東横インを東急系と誤解されるかたがおられるようですが全く関係有りません。東横インは西田社長が一代で起した会社で、同業に東急系の東急インが有りますので話が余計ややこしくなって東急インに抗議の電話がが舞い込んだようです。迷惑なことです。


―― 節分の夜に蓬莱から鬼が来て、小歌を歌って女を口説き、女は妻になると偽って、隠れ笠・隠れ蓑・打出の小槌をとり、「鬼は外、福は内」と豆を撒かれて、鬼は逃げ去る。 ―― これは有名な狂言「節分」のあらすじですが、節分の今晩、これを思い出しながら狭い我が家から木枯らし吹きすさぶ庭に向けて豆を撒きました。家中に撒かれた豆を後で拾って食べるのですがこれがまた美味しいのです。愛犬のサリーちゃんがまだ生きていた時は、待ってましたとばかりに家中、隅から隅まで撒かれた豆を食べまくっていたのを懐かしく思い出します。

ところで、「鬼の目にも涙」と言う言葉が有りますが、その語源がこの狂言「節分」からきていることを、今朝の地元紙の中日新聞の「中日春秋」で知りましたので、改めて狂言「節分」をもう少し詳しく調べてみたところ、そのとおりであることがわかりましたので以下ご紹介しておきます。

節分の夜、蓬莱の島からある一人の鬼が豆を拾って食べるために日本にやって来ました。その鬼は一人で留守番をしていた女の家を訪れました。その女は、鬼が隠れ笠と蓑をまとっていたため姿が見えなかったので恐れることもなく家の中に入れてしまいました。ところが蓑を脱いで現れた鬼の姿を見て女は恐怖心にかられました。鬼はその女が美しかったので、一目ぼれしてしまい言い寄りましたが女に冷たくされて悲しくなり泣き出してしまったのです。

すると、今度は女はなびいたフリをし尾て、隠れ笠、蓑、打ち出の小槌といった宝物を鬼から取り上げてしまいました。そこで、鬼は女が心を許したと思い込み、家に上がって腰を揉んでくれと頼むと、女は豆巻きを始め、「鬼は外」と叫んで豆を撒き始めましたので、鬼は一目散に逃げていったというのです。つまり、女に冷たくされて涙したことから「鬼の目にも涙」と言う言葉が生まれたわけです。

最初は恐い振りをしながらも相手を見定めると今度は媚を売って鬼から持ち物を取り上げた上、腰を揉んで安心させてから急に伝家の宝刀の「鬼は外」を叫んで鬼を追い出してしまうこの女は、鬼より冷酷で恐ろしいことをこの狂言は物語っているようです。このような女は現代にも多く存在しており、今も昔も変わらぬ女の本質かも知れません。世の男性諸君は節分にはこんなことを考えながら豆撒きして気を引き締めるべきでしょうね。


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