−日記帳(N0.1515)2006年02月06日−
メッカ巡礼物語(3)
(メッカ巡礼者紅海に消ゆ)
−日記帳(N0.1516)2006年02月07日−
メッカ巡礼物語(4)
(ムハンマドの生涯について)


在りし日の「サラーム98」号

サウジアラビアから乗客1,272人と乗員約100人を乗せてエジプトのサファーガに向けて航行中のエジプト船籍のフェリー「サラーム98」号(18,000t)が1月2日日夜(日本時間3日朝)、紅海で沈没しました。船客の殆んどはエジプト人で出稼ぎから帰国する人たちで、その大半はメッカ巡礼を終えたのを機に、巡礼を終えたことをみやげに帰国する人たちでした。先月のミナの谷での数百人にのぼる犠牲者に加え、またメッカ巡礼がらみの死者がでたことになりました。この事故で185名の死亡が確認され800名以上が今なお行方不明となっております。

サラーム98号ははエジプトの海運会社所有のフェリーボートで、紅海に面したサウジアラビア西部のドゥバハ港を2日午後7時(日本時間3日午前2時)に出港して対岸に位置するエジプトのサファーガ港に8時間後の3日午前2時半に到着の予定でしたが、2日午後10時ごろにレーダーから船影が消え、その後火災を起して沈没したことが確認されました。今回の悲劇は火災、沈没という事故以外に、船の設備、船長以下船員たちの無責任極まりない行動等の人災的な要因も有ったようですが、改めてその原因を以下に整理してみました。

1.船の老朽化:
2.救命胴衣・ボート等の救難設備不足:
3.消火活動の失敗
4.避難誘導の不手際

サラーム98号は船齢約35年の老朽船で1999年に修理をしており、最大乗船人員は2500人ですので、この点に関する限り法令違反を犯してはいませんが、救命胴衣・ボート等の救難設備は明らかに不足していたことが救助された乗客の証言で判っております。船員たちが危険は無いからと言って乗客が着ていた救命胴衣を脱がせて取上げ、それを着て海中に飛び込んでいったと証言しておりますので不足数は相な数にのぼっているようです。

サラーム98号の下部の車両デッキには乗用車やトラックなど40台以上が積載されており、何らかの原因で左右のバランスが崩れて急激に傾いたために浸水した可能性があり、エジプト政府当局者は4日、トラックの積み荷から出火した際に放水された水が左右どちらか一方に溜まったためバランスを崩して傾き沈没したと発表しております。しかし、出火したのは出港して間もなくであり、乗客の安全を優先するならば直ぐに港に引き返して乗客を降ろした上で消火活動すべきであるのに、引き返すどころか、延焼しているに停船もしないでエジプトに向けて航行指示した船長の判断は言語道断です。

しかも、船長は船員に乗員を救助をするように指令することもなく勝手にボートに乗って逃げ出し、船員も救助活動せずに乗客から取上げた救命胴衣を着て一目散に飛び込んで逃げ出したと言われておりますので、人災といっても過言ではないと思います。船長や航海士などは行方不明ですが、もし生存しておれば当然裁判所にて裁かれることは間違いないと思われます。こんな船長や船員たちも当然、イスラム教徒でしょうから、一体イスラム教って何だろうと思ってしまうのは私だけでしょうか。


カーバ宮殿を取り巻く巡礼者たち

デンマークの新聞が昨年9月、イスラム教預言者ムハンマドの政治風刺画・漫画を掲載したことに端を発し、今年になってからイスラム教諸国とデンマークだけでなく、報道の自由を擁護するノルウエー、ドイツ、フランスなどの欧州諸国との対立が激しくなり、ローマ法王、国連事務総長、ブッシュ米大統領までが沈静化のための声明を発表するほどに国際的な大問題になっておりますが、イスラム教に関心の薄い日本ではこの問題はあまり報道されておりません。この問題はいずれ後日この日記でも採り上げることにして、今日は「メッカ巡礼物語り」の最終章としてその巡礼の対象となるムハンマドを採り上げてみたいと思います。

ムハンマドについてはこの日記でも何回か採り上げておりますので、「ムハンマド」をキーワードにして本サイトの表紙の検索窓に入力してチェックして検索された記事を編集して「イスラム教開祖・ムハンマドの生涯」と題して特集記事を雑感記にアップしました。 ムハンマドは、日本では以前「マホメット」と呼ばれておりましたが、ムハンマドの方が実際の発音に近いので最近はこのように呼ばれるようになりました。

彼の一生は実に波乱に満ちておりますが、結婚前と結婚後ではまるで別人ではないかと思われるほどに様変わりしております。名門の出身でしたが幼少の頃、父母と死に別れて経済的に苦労し、性格的にも弱気なタイプだったことからあまり目立たない凡庸な男だったようです。ところが、彼には結婚を契機に幸運が巡ってきます。まず、裕福な15歳も年上の未亡人ハディージャに雇われ、昔経験した隊商による交易の仕事を任されたことでした。普段は弱気で目立たなかった彼がこの仕事で腕を発揮したこともあって、ハディージャから結婚のプローズをされたのです。

そして、次の幸運はある日、何時ものように洞窟で瞑想していたところ、大天使ガブリエルが現れて彼にアッラーの神の言葉を伝えたことでした。最初は恐怖で震え上がったのですが、妻、ハディージャの励ましに支えられて、積極的にその言葉に耳を傾け、やがて自分こそアッラーの神の意思を人々に伝達する役目を果たすべきと考えるようになり、その言葉に基づいてイスラム教として纏め上げて普及活動をするようになったのでした。

そして、更に幸運なことに、彼の布教活動に有能な友人たちが協力してくれたことでした。更に彼の布教の原点はは「人はみな平等である」が基本でしたので、裕福な人たちが私有財産を召し上げられるのではとの思いから布教に反対して戦争をしかけましたが、平等を説くムハンマドを慕う信者たちの敵にはなりえず敗れ去っていったのでした。それでも、一時はメッカの反対勢力の迫害を受けて622年にメディナに逃れたことが有りました。しかし、不思議なことにこの、ムハンマドにとっては屈辱的な年を「ヒジュラ(聖遷)」 と称して、イスラム歴も元年にしているのです。

しかし、富の平等を説くムハンマドの教えに反して、一人当たりのGDPがイスラム教国では石油の産出量の大小だけの理由で、一人当たりのGDPがカタールの36,476ドル(米国の37,622ドルとほぼ同等)に対してイエメン510ドル(カタールの約1/70)、イスラム教国最大のインドネシ1,165ドル(カタールの約1/30)、第二位のエジプト1,390ドル(カタールの約1/26)と格差が広がっている矛盾をあの世でムハンマドはどう考えているのでしょうか。


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