−日記帳(N0.1551)2006年03月16日−
荒川選手への欧州メディアの偏見
−日記帳(N0.1552)2006年03月17日−
荒川選手が君が代を口ずさむ姿


華麗に演技する荒川選手

荒川選手の冬季五輪女子フィギュアで金メダルを獲得した演技は誰が見ても素晴らしかったと思いますが、主催地のイタリアを除く欧州各国はこの演技をを冷ややかに報道しておりました。特に酷かったのは、リレハンメル、長野五輪のフィギュア男子で銅メダルを獲得したフランス人のフィリップ・キャンデロロ氏は実況中継の解説の中で、荒川選手のその時の演技を「茶わんのご飯1杯分の値打ち」と酷評して物議をかもし在仏の日本スケート連盟代表を名乗るフランス人弁護士から「日本人に対して非礼」との抗議を受けた同テレビ局は「発言が驚きと怒りをもたらした」として謝罪、同じ過ちを繰り返さないことを誓った書簡を平林博駐仏大使に送るという一幕が有りました。

これまで、オリンピックで女子フィギュアの金メダルは欧米人が独占し続け、アジア系の黄色人種が金メダルを取るなど夢にも思っていなかっただけに、今回の荒川選手の金メダル獲得は欧米人にとって相当のショックだったようです。1992年のアルベールビル大会で伊藤みどり選手が銀メダルを獲得した時もジャンプだけの選手程度にしか評価されておりませんでした。しかし、今度の荒川選手の演技はジャンプだけではなく、スピン、ステップ、スパイラルなどバランスよく高得点を獲得しておりました。

イタリアを除くほとんどの欧州のメデフィアでは、荒川選手の金メダルは、イリーナ・スルツカヤとサーシャ・コーエン選手が転倒したために転がり込んできただけのことで、いずれかの選手が転倒しなかったら荒川選手の金メダルは無かったと報道しておりましたが、次のように2位コーエン選手との得点差は8点以上有り、専門家によれば例えコーエン選手が転倒しなくてもこの得点差を逆転することはまず有り得ないとのことでした。

金 :荒川静香  191.34
銀 :コーエン   183.30
銅 :スルツカヤ 181.44

かって日本の女子バレーが世界に君臨した時、日本に不利になるようにルールが変えられ、日本のジャンプが強かった時、背の低い日本人に不利になるようにルールが変えられるなど、私の僻みも有りますが、オリンピックのルールは常に日本人に不利になるように変えられているように思われてなりません。フィギュアスケートのルール改正は


表彰台の一番高いところに立った荒川選手

荒川選手が冬季五輪女子フィギュアで優勝し表彰台に立っている姿は美しく、凛々しく、そして清楚で素晴らしかったのですが、私が感激したのは彼女が表彰台で君が代吹奏を聞きながら口を動かして口ずさんでいる姿でした。実際に日本で瞬間視聴率が最高を記録したのは、午前7時11分に表彰台の一番高いところに立った荒川選手が「君が代」を口ずさむ場面でした。

さすがオペラの国、イタリアだけあって君が代の吹奏は見事でしたが、それ以上に荒川選手が「君が代」を口ずさむ姿は我々日本人にとって感動を覚えるシーンで目頭が熱くなるのを抑え切れませんでした。こんな素晴らしい国歌、「君が代」を何故、一部の日本人は歌おうとしないのでしょうか。私は、日本の教育にとって最大の悲劇であり失敗だったのは戦後の日教組の教員の洗脳であり、それが故に今日の教育荒廃を招いたと考えております。国旗掲揚や国歌斉唱に無関心な人たちが全て悪いとは言いませんが、日教組の国旗掲揚や国歌斉唱を拒否する方針がこのような人たちを生んだことは否定できないと思います。

「君が代」の歌詞が天皇を賛美する内容であったこと、またこの歌に鼓舞されて多くの国民が尊い命を落としていったことも事実だと思います。それ故に、「君が代」の君=天皇 であることに間違いなく、このままの解釈で「君が代」を歌うことには、私も日教組と同じ思いでやはり拒否します。しかし、オリンピックなど国際舞台で「君が代」が「日の丸の旗」掲揚のもとで吹奏されると目頭が熱くなる思いは私だけではなく多くの日本人の心のどこかに宿っているのではないでしょうか。

「君が代」の歌詞の発祥は「古今和歌集」まで遡ると言われますが「詠み人知らず」とされており作詞者は不明とされております。にもかかわらず1,000年以上の長きに渡って歌われ続けてきたのは、特定の作者を意識させぬほど自然発生的に存在し、悠久な時の流れの中で広く国民に親しまれてきたとも解釈されます。そして、あの荘厳な曲も明治2年(1969)に国歌制定を説いた軍楽隊長フェントン(英国人)が曲を付けたものの日本人にそぐわなかったことから明治13年(1880)に宮内庁雅楽課の林広守が改めて作曲し直したものにドイツ人エッケルトが和音をつけて現在の曲に至り、1880年11月3日)に初演されたと言われ、紆余曲折を経ながら今日に到っております。

このようにして「君が代」には歴史の重みが有り、国民もこれに親近感、愛着心を抱き続けてきた結果、広く国民の間に浸透しており、これを廃止して新しく国歌を制定することは、憲法を変えたり、天皇制を廃止したりするのと同等以上の問題点をはらんでいると考え、この「君が代」を新しい解釈を付けることで存続させることが望ましいと思います。その新しい解釈について以下に考えてみたいと思います。

「君」は文法上、二人称単数で「あなた」の意味で、君子の「君」ではありません。従って、「君が代」の「君」は国民の象徴である天皇を指しておりますが、象徴である天皇を通して日本国民を指していると解釈すればいいわけです。日本国憲法第1条は「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」であるとしておりますから、日本の象徴である天皇を中心に日本の平和と繁栄を願うという意味に捉えれば憲法の精神には何ら抵触することはなく、次のように解釈される「君が代」の歌詞は他に類を見ない素晴らしい国歌であると信じてやみません。荒川さんの金メダルがこのことを教えてくれました。その意味でも荒川さんの金メダルは素晴らしかったと思う次第です。

「君が代は」・・・天皇を象徴とする日本国が
「千代に八千代に」・・・何時までも
「さざれ石の」・・・細かい石が
「巌となりて」・・・巨岩になって
「苔の生すまで」・・・苔が生えるまで(続きますように)


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