−日記帳(N0.1563)2006年03月28日−
森鴎外の「高瀬舟」での安楽死
−日記帳(N0.1564)2006年03月29日−
終末期医療での安楽死


復元された高瀬舟が係留されている一之船入

京都に「高瀬川」という名の川が有ります。この川は慶長16年(1611)頃、京都の豪商の角倉了以が開いた運河で、当時は二条木屋町あたりを起点として鴨川に平行して十条まで南下し伏見京橋で宇治川に合流しており、江戸から大正時代にかけて、浅い水深でも航行出来るように造られた平らな船底を持つ高瀬船で京都、大阪間の物資の運搬が行なわれておりました。諸国から船で大坂に集められた物資を淀川を経てこの高瀬川を経由して京都に運び入れるのが運河を開いた目的で、代々、角倉家はこの運河の通行料の収入によって財をなしております。

現在の高瀬川は鴨川との交差付近で分断されており、鴨川以南は東高瀬川・新高瀬川となっており、高瀬川はその新高瀬川に並行しておりますが、その起点に当たる福稲地区は水も流れおらず昔の面影は全く有りませんので、鴨川と並行して流れている高瀬川と区別して旧高瀬川と呼ばれております。現在では、高瀬川を往来する船影は無く、当時の貨物積卸場だった一之船入に復元された高瀬舟が一艘係留されて僅かに当時野の面影(上の写真)を残しているだけです。ただ、高瀬川沿いには池田屋や船宿だった寺田屋などの維新の遺跡が有り、京都の繁華街を流れていることからも観光スポットとしても脚光を浴びております。ところで、この高瀬川を舞台にして森鴎外は名作「高瀬舟」で次のように書いております。

徳川時代、京都の罪人が遠島を申し渡されると、本人の親類が牢屋敷へ呼び出されそこで暇乞をすることが許されておりました。それから罪人は高瀬舟に載せられて大阪へ廻されることになっており、それを護送するのは、京都町奉行の配下にの同心の役目でした。その同心の羽田庄兵衞は、ある日のこと、弟殺しの罪で遠島を申し渡されたと喜助という三十歳ぐらいの罪人を護送したのですが、その男がこれから島流しになるというのにその表情が嬉々として明るいのが奇妙に思い、その男にその理由を尋ねてみました。

喜助は、カミソリを飲み込んで自殺を図って苦しんでいる弟を見るに見かね、その喉からカミソリを抜くことで、大量に出血させることで安楽死させたと同心に淡々と語ったのでした。この話を聞いた同心は、「喜助はその苦を見るに忍びなかった。苦から救ってやろうと思って命を絶った。それが罪であらうか。殺したのは罪に相違ないが、それが苦から救うためであったと思うと、そこに疑念が生じてどうしても解せない」 と日誌に書いたのでした。

森鴎外が「高瀬舟」を通して安楽死の問題を採り上げたのは彼自身に自分の娘を安楽死させようとした苦い経験を持っており、医者として安楽死の問題を真摯に考えざるを得ない立場に有り、自分の立場を同心の羽田庄兵衞に置き換えて安楽死を肯定しようとする意図が有ったのではないかと思えるのです。彼のその苦い経験については明日、今回の富山県射水市民病院の「安楽死」疑惑問題とともに採り上げてみたいと思います。

森鴎外の生家

森鴎外が「高瀬舟」を執筆する数年前に、鴎外の長女茉莉と次男が同時に百日咳にかかり、次男は死亡、長女も危篤状態になりました。医者はあと24時間の命と宣告し、苦しみもがく長女をモルヒネ注射で安楽死させることを鴎外に奨めました。鴎外も医者としてその奨めを受け止め、二人目の妻志げも納得して、注射をしようとしたその時、鴎外の義父、茉莉にとっては祖父がきて鴎外夫婦を叱り、「人間には天命というものがある。その天命が尽きるまで、たとえどんなに苦しかろうと生きねばならないんだ!」 と叫んだのでした。

この祖父の強い反対で、注射は取り止めになり、その後病状は回復して茉莉は一命を取りとめ、後に小説家・エッセイストとして名を成し、1957年には54才にて鴎外に関するエッセイを集大成した『父の帽子』を発表、第5回日本エッセイスト・クラブ賞を受賞、その後、『甘い蜜の部屋』(泉鏡花賞受賞)『恋人たちの森』(田村俊子賞受賞)などの長短編を発表、三島由紀夫などから激賞され、一躍文豪の仲間入りをして、1987年、84才にて心不全で他界しております。

医療技術が低かった明治中期であったことを考慮したとしても、安楽死を奨めた医者はいい加減であり、それを受け入れようとした鴎外は医者としても父親としても失格で、よくぞこんな男が日本の軍医としての最高峰の位まで登りつめたものだと思います。多分、鴎外はこのことを恥じてみづから語ることはせずに「高瀬舟」の羽田庄兵衞に安楽死を肯定せざるを得ない場合も有るのだと自責の念に駆られながらも代弁させているように私には思えてならないのです。

しかし、祖父のお陰で一命を救われた茉莉の妹で鴎外の次女で、やはり小説家・エッセイストとして名を成した小堀杏奴が自著「晩年の父」の「母から聞いた話」の中で、この事実を紹介したことから世に知られる破目になってしまいました。その時には既に父、鴎外は他界しておりましたので彼女は人間としての鴎外の意外な一面を捉えてみたかったのだと思います。

富山県射水市の射水市民病院で、男性外科医師(50が昨年10月日、受け持っていた70歳代の終末期医療を受けていた男性患者について「人工呼吸器を外したい」と同病院の麻野井英次院長に相談したところ、院長はこれを拒否した上でその外科医師の判断に問題が有ったとして内部調査した結果、過去に終末期医療の患者7人が人工呼吸器を外され、死亡していたことが判明した事実が判明し、国内では過去最大の「安楽死」問題に浮上する可能性が有るとして大きな社会問題になっております。

その外科医師は現在自宅待機となり金沢大で研修しており、遺族から無断で安楽死させられたとして同外科医師や同病院を訴える動きも、警察が同外科医師を逮捕するような動きも今のところ無いようです。多分、人工呼吸器を外された患者は意識不明の植物人間に近く本人の意思を確認できるような状態ではなかったと思われます。もしその通りなら私はこの医師を責めることは出来ないと私は思います。この場合、苦しいのは患者ではなくてその家族だったのではないでしょうか。

家族の方々には大変申し訳ありませんが、回復する見込みの全く無い患者を空しく看護し続けるのは家族にとって苦痛だったと思うのです。そのような姿をみている医師として、人工呼吸器を外すことを家族に奨めることは医師の立場上できず結局、阿吽の呼吸で自発的に外すことで家族の暗黙の了解が得られると考えたとしても倫理的には責められて法律的に裁くことは出来ないように思えてならないのです。特に人工呼吸器を外すことが患者に苦痛を与えることがなく、家族が延命処置を疑問視しかつその費用の捻出に家族が経済的に困窮している場合はこの医師の行為をは許されてもいいのではないかと思います。多分、あの世の森鴎外もそのように思っているものと思います。


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