−日記帳(N0.1613)2006年05月17日−
2006W杯物語(3)
(2006W杯出場23選手の前回との比較)
−日記帳(N0.1614)2006年05月18日−
2006W杯物語(4)
(豪州戦が行われる会場とベルンの奇跡の関係)


高校サッカーの聖地、藤枝東高グラウンド

高校時代、私は体育の時間がある日は憂鬱でした。元々、運動神経が鈍く、中学時代からスポーツは何をやってもダメでしたが、この高校では校技に指定されていたサッカーを40人からなるクラスを2チームに分けて試合するのですが、私はボールに触ることも出来ないままグラウンドをただウロチョロするのが嫌で、球を追っかけないとサボタージュ行為として単位がもらえなくなるので余計辛かったのです。

チーム内にはサッカー部員が数人おりますので殆どの時間帯、彼等がボールを支配し審判がいないのでオフサイドフリー同然で滅茶苦茶な得点争いになったように記憶しております。 言わばサッカー部員の練習に付き合わされたようなものでした。しかし、今にして思えば、日本選手としてW杯で初得点した中山雅史も、最年少で2006W杯出場選手候補に挙がった長谷部誠もこの同じグラウンドで体育の時間に走り回ったのだと思うと懐かしさがこみ上げてきます。そして、このグラウンドにサッカー観戦に来られた昭和天皇を見たことや、今や元日の風物詩ともなった天皇杯サッカーが1961年にこのグラウンドで行われたことなども思い出されてきます。全国のサッカー少年たちにとってこのグラウンドがサッカーの聖地として憧れの対象になっていることなどその時は知る由もありませんでした。

当時は野球全盛時代で、サッカーはごく限られた人たちにしか知られておりませんでしたから、昨日のジーコ監督の2006W杯出場23選手名発表が殆んどのテレビ局で同時生中継されたことを思うと隔世の感が有ります。 大正13年創立時の初代校長・錦織兵三郎氏がサッカーを「比較的短時間で勝敗が決まる上、精神修養によく、かつ日本では未開発競技で将来性が有る」と評価して校技に指定したその先見の明に頭が下がる思いがします。その結果、その伝統が清水にも及び今回の2006W杯出場23選手中、清水の高校出身者が4名も含まれいることに静岡県出身者として誇りに思います。

前回の2002W杯出場23選手の布陣(括弧内は今回)は、GK=3(3)、DF=6(8)、MF=10(6)、FW=4(5)でしたからMF中心からDF、FW重視のジーコ監督の戦略が伺い知れます。ただ、静岡県出身者が前回の7人( 三都主、中山、市川、服部、福西、森岡、戸田)から4人に減っていること、平均年齢が25.7才から26.1才に上がっていること、平均身長が179.0cmから178.5cmに下がっていることが私としては気に入りません。それ故に23選手中で最長身長DF中沢(187cm)への期待が高まります。またジーコ監督が巻選手を選んだ理由のひとつに23人中3番目の彼の身長184cmが有ったようにも思われます。いずれにしても身長対策をより慎重に行う必要が有るようい思います。


フリッツ・ワルタースタジアム

2006W杯ドイツ大会で、日本が緒戦を豪州と対戦するドイツの小都市、カイザースラウテルン市にあるフリッツ・ワルタースタジアムは、W杯の試合が行われる12の会場の中では最も小さいものですが、競技場の名前のフリッツ・ワルターはドイツのサッカー史の中で燦然と輝く名プレーヤーの名前でもあります。また、カイザースラウテルン市も12の会場都市の中で最も小さい人口10万程度の都市ですが、かって神聖ローマ帝国の皇帝で赤髭王の異名をとったフリードリッヒ一世がここに城を建設したことから、ローマ帝国の皇帝の尊称のカイザーの名前がこの都市に付けられております。

1954年のW杯は敗戦国西ドイツがはじめて復帰を許された国際大会でしたが、当時圧倒的な強さを誇りW杯優勝候補ナンバーワンと目されていたハンガリーと一次リーグでいきなり対戦することになりました。当時のハンガリーは1952年のヘルシンキ五輪での優勝を含め1950年のポーランド戦から4年間の国際試合で32戦28勝4分の無敗のままW杯に臨みまさに向かうところ敵なしの勢いでした。

西ドイツのヘルベルガー監督は、このハンガリーを破ってW杯初優勝することで、敗戦から漸く立ち直った西ドイツの国民に元気と勇気を与えるとともに不屈のゲルマン魂を世界にアピールする絶好の機会と考えたのでした。そこで、1次リーグでとまともにハンガリーと戦ったのでは優勝への道は無いとしてある策略を考えたのでした。一次リーグの2組はハンガリー以外は西ドイから見れば格下のトルコと韓国ですからハンガリーに負けても2位決定戦で勝てば決勝トーナメント進出可能で、決勝トーナメントでは西ドイツとしては組しやすいユーゴとオーストリアと当たるのに対しハンガリーは優勝候補の両雄、ブラジルとウルグアイと当たるため疲労がピークに達した状態で決勝戦を迎えることになるとの推測がこの策略の前提条件でした。

この推測を前提にヘルベルガー監督は、一次リーグでのハンガリー戦には主力を温存して勝負を捨てた反面、ハンガリーの主力選手に厳しく当る策略をとり、キャプテンでFWのフリッツ・ワルターにその実行を指示したものと思われます。それが意図的な反則寸前のラフプレーか否かは私には判りませんが、この試合でハンガリーのエースストライカー、プシュカシュは足を負傷し、これが後に尾をひくことになりました。この試合で、西ドイツは8−3という大差で負けましたが、ヘルベルガー監督にとっては予定の行動による結果でしたが、それを知らない西ドイツ国民は10年近い空白期間の厳しさを感ずるとともにヘルベルガー監督に批判を浴びせたのでした。

ヘルベルガー監督の推測は見事に当たり、西ドイツは2位決定戦でトルコを破って決勝トーナメントに進出し、準々決勝でユーゴを2−0、準決勝でオーストリアを6−1で楽勝したのに対して、ハンガリーは事実上の決勝戦と言われたブラジル戦で精力を使い果たした結果、疲労がピークに達した状態で西ドイツと対戦することになったのでした。この試合、立ち上がりにハンガリーが2点先行しブラジルが1点返して前半を折り返すと、後半早々に1点ずつを追加し、激しいぶつかり合いが続く中、殴り合いのけんかで1人ずつ退場し、更に終了直前にブラジル選手がもう1人退場して9人となり漸く試合は4−2でハンガリー勝利で終わったのですが試合後のロッカールームでも殴り合いが続き、双方の選手、監督が顔面から流血する事態となり、後世に「バトルオブベルン」と言われるようになたのでした。

そして、1954年7月4日、スイスの首都ベルンでハンガリー対西ドイツの決勝戦が行われました。ハンガリーが負傷を押して出場したプシュカシュの先制ゴールなどで開始10分で2得点をあげた時点で、ヘルベルガー監督の推測は外れたかに思われましたが、ハンガリー選手の運動量はその後みるみる低下し、前半終了直前に西ドイツに追いつかれ、後半、ヘルムート・ラーンのこの日2点目となる値千金の決勝点で、西ドイツが3−2で大逆転してW杯初優勝を遂げたのでした。

後世にこの勝利は「ベルンの奇跡」と称され、ブンデスリーガー1部に所属するカイザースラウテルンに所属し、このW杯を通して代表チームのキャプテンをつとめたFW、フリッツ・ワルターの活躍を讃え、カイザースラウテルンのホームスタジアムを彼の名前を冠して「 フリッツ・ワルター」としたのでした。この試合で2得点した貢献大のヘルムート・ラーン、見事なリーダーシップで優勝に導いたヘルベルガー監督ではなく、代表チームのキャプテンで、このW杯6試合で3得点のフリッツ・ワルターの名前をとったのは、単に彼が地元のカイザースラウテルンの選手だっただけのことと思いますが如何がなものでしょうか。2004年にこの出来事が「ベルンの奇跡」とのタイトルで映画化されましたが私は見ておりません。

尚、このW杯には敗戦国の日本も西ドイツとともに参加を許されたものの出場枠は僅か1で、これを日本と韓国の2ヶ国だけの予選でホームアンドアウエー方式で争そうことになりました。1954年3月7日に神宮競技場(現国立競技場)で行われた第1戦で日本は長沼健(現日本サッカー協会名誉会長)のゴールで先制するも、日本に負ければ「玄界灘に身を投げる」覚悟で挑んだ韓国が後半に猛攻を浴びせ 5-1 の大差で逆転勝ちし、韓国大統領の李承晩が日本代表選手のの韓国入国を拒否したため、第2戦も再び3月14日に日本で行われ2−2の引き分けに終わり、韓国が1勝1分で本大会に出場することになり、この試合以降、日本はW杯予選で40年以上にわたり韓国に勝てない歴史が続いたのでした。

しかし、韓国は本大会の1次リーグでハンガリーとトルコと対戦し、2戦2敗16失点(無得点)という不名誉な記録を残して敗退し地元紙に「W杯へサッカーを学びにくるもんじゃない」と酷評される始末でした。ただ、韓国には当時の交通事情の悪さによる長旅のハンデが有りました。6月9日ソウルを出発した選手団は釜山まで列車、釜山から日本までは船、そこからフランス航空機と米空軍機に11人ずつ分乗してスイスへ向かい、一行がスイスに到着したのは出発から一週間後の6月16日の深夜で、実に試合開始十数時間前に加え、狭い軍用機での移動に体力を消耗した韓国は時差というハンデも抱えながら試合に臨んだのでした。韓国はこの時の屈辱をバネに研鑽してアジアの盟主として君臨し、2002年の日韓W杯でその成果を世界に見せつけ半世紀前の屈辱を晴らしたのでした。


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