−日記帳(N0.1060)2011年05月31日−
米国東部4都市周遊旅行第1日
(自宅→中部→成田→(機中泊)シカゴ→ボストン(ボストン泊))
−日記帳(N0.1061) 2011年06月01日−
米国東部4都市周遊旅行第2日
(ハーバード大、フェンウエイ、ボストン美術館見学等(ボストン泊))


今回の旅行の往復路で利用された全日空ボーイング777-300ER機

宿泊先の高速道路上にあるホテルの窓からの風景



(1)海外旅行に賭ける私の思いと今回の旅行の経緯
私も人並みに、カラオケ、囲碁、スポーツ観戦、ネット等の趣味を持っておりますが、海外旅行には特別な思いを抱いております。好奇心旺盛なためか未知の世界に憧れ、世界遺産に登録されている、例えばナイアガラの滝、ヒマラヤ、ヨーロッパアルプスなどの壮大な自然の現象や、ピラミッド、アンコールワット、ポンペイの遺跡などの人類の文化遺産の風景などを観たい衝動に駆り立てられ、時には夜も眠れないほどです。

そんなことから、本サイトのプロフィルにありますように、既に20回以上旅行して約30ケ国を訪れております。当初は、ゴルフで自分の歳以下のスコアを出すことをエイジシュートと言うように、自分の歳以上の国や地域に観光旅行することを仮に、エイジトラベルと言うならば、これを達成することが定年退職時の夢でした。

そのためには、定年後から始めるならば、60歳の定年後10年間で少なくとも60回以上、つまり2ヶ月に1回ぐらいのペースで海外旅行する必要が有ります。私の場合、主に経済的理由で実行出来ないことから早々に諦め、ハーフエイジトラベル、つまり自分の歳の半分以上の国と地域に観光旅行することに目標を変更することにしました。

これなら、80歳までに約10の国と地域を観光旅行すればいいわけですから達成の見込みは有ります。その残りの国と地域として、米国東部(ボストン、ニューヨーク、ワシントン)、ロシア(モスクワ、ハバロスク)、インド、オランダ、ベルギー、アラスカ、香港、ポルトガル、イスラエル、モンゴル、チベットを等を候補に挙げております。中でも、米国東部は数十年来の念願でその機会を覗ってきましたが、9.11事件以降、地元の中部国際空港発着の手頃な旅行プランが見当たらないまま現在に至ってしまいました。

ところが、今年になってJTB、阪急、クラブツーリズムの大手3社が挙って、米国東部方面の旅行プランを発表しはじめました。私よりも海外旅行好きで、毎日のように新聞の旅行プラン広告に目を通している女房殿がこれを見逃すわけがありません。4月のある日、大手3社の米国東部方面の旅行プランの新聞広告の切り抜きを私に見せて意見を求めてきました。3社に共通しているのは、6泊8日で成田発着、ニューヨーク、ワシントンに行くことでした。

私は、この中からボストン、フィラデルフィアにも立ち寄り、ディナー付きのニューヨーク夜景観賞が有り、自由行動時間が無い阪急のプランを推奨し、女房殿もこれに賛同したことから早速5月上旬の出発日を申し込んだところ、既に満員で締め切ったとのことでした。やはり、旅行マニアが待ち望んでいただけに人気があるようでした。そこで、5月31日出発日の今回のプランを申込み何とか間に合ったわけです。

(2)今回の旅行の工程

今回の旅行の工程

(3)今回の旅行の日程
今回の旅行は、上図の工程を下図の日程で行うことにあります。この日程で最も体力的に厳しいのは第1日の成田を5月31日11時頃出発して最初に宿泊先のボストンのホテルに着く5月31日23時(日本時間で6月1日23時)までの24時間です。何故なら、陽が昇る西に向かって日付変更線を通過していくためシカゴ空港に着くまで常に昼間の状態の上、シカゴ空港に着くのが早朝のためシカゴ美術館見物で時間調整してから空路、ボストンのホテル夜遅くに到着するからです。

今回の旅行の日程

もし、成田を夕刻(アメリカン航空AA154便、18:15成田発)出発すれば、シカゴにも夕刻(同航空の場合、16:05着)到着しますので、機中で睡眠を取れなくてもシカゴのホテルで充分睡眠取れて楽ですが、ボストンへの移動が翌日となって日程が1日分増え、更に航空会社がANAで統一されないため利便性が悪くかつ費用が割高になることから採用されなかったようです。結局、このフライトに更なる不運が加わって、私にとって過酷なフライトになった事情は(4)で述べたいと思います。

(4)過酷なフライトになった事情
このフライトでは機中、窓を閉めて灯りを消して睡眠できる環境作りをしてくれるのですが、日本時間で10時45分の出発から22時45分カゴ空港到着までの11時間35分の間に2回の食事だ有るなどで睡眠をとるのは至難の技で昼寝程度の短い仮眠を摂るのが精一杯、更にその後疲労状態で美術館見学してから国内線を乗り継いでボストンまで行くのは想像するだけでもしんどそうです。

そして、私にとって二つの不幸が禍してそのしんどさが助長されることになりました。ひとつめの不幸は、ネット座席予約を開始直後に試みたところ、ツアー参加者数の31以上ある筈の残席が16しかなく、しかも横並び、通路側の席は皆無で全て3連席の最悪の中央の席しかないため、我々夫婦は離れ離れの席を予約せざざるを得なくなったことでした。

ふたつめは私の左の窓側に肥満の米国人男性、右の通路側に超肥満の米国人女性があドッカリと座り、しかもその女性はノートパソコンを使用しているため、トイレに行こうとしても声を掛け辛く、結局その女性がトイレ行きで席を外す機会を待つしかありませんでした。そんな事情でただでさえ辛いエコノミー席で12時間もの間、窮屈な姿勢を強いられることになりました。

こうして、退屈凌ぎのテレビ視聴もモニターが9インチで小さいため目疲れするので3本に留めて極力仮眠を心掛けました。しかし、元々夜型人間の私にとって昼間から夕方にけけて睡眠を摂ること自体無理なことで、テレビ視聴以外の時間帯は、ただひたすら目を閉じているだけでした。そして、漸く朝食を取り終えると、シカゴまであと1時間との機内アナウンスにほっと胸を撫で下ろしました。

(5)米国入国手続きについて
日本から米国に渡航するには、ビザ(査証)は不要ですがその代わりにESTA(Electronic System for Travel Authorization)と呼ばれる電子渡航認証システムを事前に申請しておくことが2009年1月12日から義務付けられました。従って、私は、ここにアクセスして所要事項を入力してから14ドルをVISAカードで支払いを済ませてから認証番号を取得しその証明書をコピーしてパスポートともに常に携帯しておりました。

通常、手入国時にESTA証明提示を求められることはありませんが、何かトラブルが有った際に求められることが有り、不所持の場合は不測の事態を引き起こしかねないからです。このESTAにより、従来の米国の手入国カード記載が不要となり、元々日本の手入国カード記載は不要ですので、日米間では一切の手入国カード記載が不要となり、この点では大変楽になりました。

シカゴ・オヘア空港に着き「Non-Resident(非居住者)」と書かれた審査ゲートの列に並び入国審査を受けました。必要なのはパスポート、Eチケット、その後で家族単位の税関申告書です。審査官は英語で簡単な質問をしてくることが有ります。特に意味は無いので答えられなくても問題有りませんが、単語だけの簡単な英語ですので何とか判ります。

私の場合、鈴木姓だったので「スズキ(自動車メーカー)と関係有るのか?」と聞かれ笑って「NO!」とだけ答えました。続いて、親指を突き出す仕草をして親指を指紋台にタッチするよう指示してきました。指紋検査の順番は、最初に左手の親指、次いで右手の親指、そして左手の残った4本の指、最後に右手の残った4本の順となっておりますが右往左往しました。

(6)シカゴ市内観光
こうして、ニューヨーク、ロサンゼルスに次いで全米3番目の大都会シカゴ(人口約270万)の街に足を踏み入れました。長時間のフライトで大変でしたが、中部空港で預けた重いスーツケースが成田、シカゴ経由、ボストンまで継いで運んでもらえるのでシカゴ市内観光は手荷物の携帯だけで済み助かりました。空港からは地下鉄(CTA)で都心に出ました。

シカゴ地下鉄の自動改札ゲート

ガイドさんから渡された1ドル紙幣4枚と25セント貨1個を各自、自販機に投入して入手したトランジトカードを上の写真の自動改札ゲートに挿入してボタンを押すとゲートのバーがフリーになるのでバーを押してホームに入り、出る時はフリーになっているゲートバーを押すだけで出られるころまでは理解できますが、その後のことがよく判らなかったのです。

シカゴ美術館見学などを終えてから空路ボストンに行くために再びオヘア空港に戻る時、このカードがそのまま使えた仕組みが判らなかったのですが、帰国後にネットで調べて漸く判りました。初乗り駅から2時間以内で下車すれば、その下車駅から初乗り駅までの復路にこのカードがそのまま使えるシステムになっていたのでした。ガイドさんが、このカードを失くさないように注意していたのはそのためでした。下の写真がそのカードで、回収されることなくポケットの片隅に残っていたものです。

この時使用したトランジットトカード

ニューヨークほど高くないものの整然としているシカゴの高層ビル群

美術館に行く途中、ガイドさんが面白いところに案内してくれました。インド出身の彫刻家アニッシュ・カプーア作のステンレス板からなる空洞の巨大彫像クラウド・ゲート(高さ10m、幅20m、奥行き13m)で、豆のような形から「ザ・ビーン(The Bean)」とも愛称でも呼ばれております(下の写真)。168枚のステンレス板を溶接して繋ぎ合わせ極限まで研磨された表面は鏡の塊のような外観を呈しており、紆余曲折を経て2007年の公開以来観光スポットの目玉になっております。

ミレニアム・パークににあるクラウド・ゲート

この周囲の人が近付くと、その姿が歪みながらも全周囲で鏡面に映し出されます。下の写真はその様子です。この見事な鏡面を維持するために下部を下部1.8m分は一日二回、手作業で清掃され、全体は一年に二回、150リットルの洗剤を用いて洗浄されているとのことでした。悪戯の被害からの回復も随時行われ、2009年2月に個人名が彫り込まれたことが有り、この時には製作時に研磨作業を担当した企業によって回復作業が行われたとのことでした。

鏡面に映し出された群像、当然この中に撮影者の私も映っているはずですが・・・

(7)シカゴ美術館で名画見学
シカゴ美術館(AIC=The Art Institute of Chicago)はメトロポリタン美術館、ボストン美術館とともにアメリカの三大美術館の一つで、僅か2時間の見学でしたが名画の数々を、ガイドさんの「耳太郎」を通しての解説を聴きながら観賞しました。このAICに限らず米国の美術館の殆は、フラッシュを使わない写真撮影は許されて(但し、ビデオは禁止)おりましたので、以下に何枚かを写真に収めましたが、バカチョンによる素人の腕のため見映えのしない画像になってしまいました。

米国の美術館では、絵画を背景に記念写真を撮ったり、絵画の正面真近かに居座って撮影を妨げるようなマナーの悪い見学者が少ないことが、このように写真撮影を許可し、保護ガラスで絵画を覆わずに直接観られるしているのだと思いました。敢えて額縁を入れたのは、真正面から撮影するタイミングがなかなか得られず、斜め方向からのアングルになってしまうからです。額縁は、絵の主題や雰囲気に合わせて制作されているので案外、立体的に雰囲気が出ていいかもしれません。

AICの玄関とライオンの彫像

AICの1階ロビーのシャガールの鮮やかなステンドグラス「アメリカの窓」
アメリカについての年代別の印象が表現されておりなす

1930年に米画家グラント・ウッドが描いた「アメリカン・ゴシック」
古風な家の前に三叉のピッチフォークを手にして立っている初老の男女
実際の女性は作者の妹、男性は作者のかかりつけの歯医者で理性的で質素な農夫
とその娘の親子を描いております。親子の異なる視線から、何を見詰め何を考えている
のか妙に気になってしまいます。アメリカでは最も人気のある作品と言われております

ヴァン・ゴッホの自画像
数多くの自画像が描かれておりますが、この作品が最も有名のようです。
彼は鏡像を見ながら描いているため顔の右半分は実際には左半分です。
何故、ゴッホはこのように自画像を多く描いたのでしょうか?

ジョルジュ・スーラスーラの「グランド・ジャット島の日曜日の午後」
寄贈者の遺言により貸し出しが禁止されているのでここでしか観られないとのことでした

ルノワール等を経済的援助したことで知られるカイユボットの「パリ、雨の日」
ガイドの表紙に取り上げらほどのAICのシンボル的作品で私には最も印象的でした
巧みに反射光を表現することで雨に濡れた石畳が見事に描かれ、相合傘の二人の男女
が映画のワンシーンのようにトリミングされかつい大胆な遠近法が採用され男女の膝か
ら下が描かれてないのでより近接して見え、画像からもその印象が思い起こされます

クロード・モネの「睡蓮」
晩年期に手がけた有名な連作でボストン美術館展示品とともに世界的に有名な作品で
AICに数ある「睡蓮」の中で最も大きなサイズです。

ルノアールの「二人姉妹(テラスにて)
鮮やかな色彩で陽の光が木々の間からテラスの母娘に降り注ぐ様子が描かれており
姉の優しさ、妹の可愛らしさが周囲の花を背景に見事に表現され、特に私には姉の帽子
の橙色とドレスの青色が雰囲気を引き出しているように思えました


(1)ボストンについて
シカゴから長旅の疲れを癒す間も無いまま空路、ボストンに移動しホテルに着いたのは夕刻でした。ホテルで夕食をとり就眠しようとしたところ、稲妻の閃光で夜空が一瞬明るくなり、いくつかの光の筋が地平線上のの森と交差し、やがて雷鳴が轟きわたりました。このホテルは、上の写真に見られるように高速道路を跨ぐ架橋の上に建てられているため窓からほぼ180度高角度で見渡せますので、これまで観たことのない凄まじい雷ショーをベッドから窓越しに見物することができました。

ボストンは、沖合を流れる暖流の影響で天候が変わりやすく、朝方は快晴でも昼ごろ雨が降ったり、今晩のように夕方雷雨になることも珍しくないとのことで、この日もそんな不安定な一日となりましたが大降りされることはありませんでした。。そういえば、このボストン生まれのベンジャミン・フランクリンが雷に向けて凧を上げて、雷の本体が電気であることを実験で確かめて避雷針を発明したことを思い出しました。きっと、彼も小さい時から今晩のような雷を何度か見聞きするうちに思いついたのでしょう。 ボストンの人口は約62万(全米で22位)の中都会ですが、1620年に宗教的な迫害を受けた英国の清教徒(ピューリタン)の一行約100名が、メイフラワー号に乗ってボストン沖に着いたことがアメリカへの植民開始の象徴のように言われていることから判るように、ボストン一帯で「ボストン茶会事件」レキシントンの戦い」等が起こり、アメリカ独立戦争の発端の地となっております。

そんな経緯により、ボストン一帯には全米最古の施設が多く残っていることから、今回のツアーでその一端を垣間見ることになりました。まず最初に訪ねたのが全米最古にして、世界の秀才たち憧れの世界ナンバーワン大学、ハーバード大学でした。この大学は、三代将軍家光治世の寛永年間、1638年に土地と蔵書を寄付した副牧師のジョン・ハーバードのよって創立されたとされております。

(2)ハーバード大学

ハーバード大学の正門

上の写真はハーバード大学の正門で、ボストン市内観光の名所にもなっており自由に何時でも出入りできます。創立当時、学舎は全てボストン市内に在ったのですが、お隣のマサチューセッツ工科大学(MIT)と同様に、チャールズ川を隔てて英国の名門大学、ケンブリッジのと同じ名前を付けて創られたケンブリッジ市内各所に建てられており、本部の住所もMITと同様にケンブリッジ市となっております。

正門近くの大学構内に在るジョン・ハーバードの銅像

この銅像には、@ 本人でないこと、A 1638年創立は1636年創立の記載誤り、B 創立者との記載は後援者の記載誤り、厳密にはハーバード大学の創立者は居らず彼の肖像画が見付からなかったため格好のいい学生をモデルにしたとのことです。左足がピカピカに輝いているのは手で触ると難関校に合格する幸運がもたらされるとの言い伝えにより多くの人たちに触れられた結果です。同じような光景をイタリアのヴェローナのジュリエットの銅像の乳房でも観られました。

ハーバード大学図書館の中で威容を放つワイドナー記念図書館の遠景

ハーバード大学・ワイドナー記念図書館の近景

この図書館の蔵書数、1530万冊は大学図書館として世界最大で、その規模は、米国議会図書館に次いで全米2位、世界でも4位を誇っております。その図書館システムの中枢となっている上の写真のワイドナー記念図書館には、タイタニック号で息子を亡くした母親の厚い思いが込められております。息子のハリーは、1907年にハーバード大学卒業して5年後の1912年にタイタニック号で死亡しました。

息子の死を悲しんだ母親は大学に巨額の寄付をすることで大学の図書館に息子の名前を付けることを許されたことから建築家・トランバウワーにその設計を一任して完成したのがこのギリシア神殿風の柱をもつ美しいこの図書館です。正面の階段を上がったところに作られた息子の書斎に毎日新しい花を生けることが大学と交わした約束で現在でもその約束は果たされているとのことでした。

ハーバード大学・メモリアルホール

ハーバード大学コーポ(ここでハーバードグッズのお土産を購入)

(3)フェンウェイパーク

ボストンレッドソックス(以下BSと略)の本拠地、フェンウェイパークはハーバード大学とともに是非とも観たかったスポットでした。当日は、ホワイトソックスとのデーゲームが行われておりましたが、残念ながら中に入ることは出来ず、バスで一周し車窓からフェンウェイパークの外観を見学しました。

BSは創立こそニューヨーク・ヤンキースと同じ1901年でしたが、1918年までにワールド・シリーズを5回制覇するなど、当時のMLB最強のチームでした。当時、米国東部の三大都市はボストン、フィラデルフィア、ニューヨークで、その規模も似たようなもので、中でもボストンは前述のように、全米一の名門大学ハーバード大学と名門球団BSを擁していたことからニューヨークよりも格上の都市でした。

従って、当時のヤンキースの打倒BSの思いは根強く、経営難から1920年にBSが同球団の至宝、ジョージ・ルース(愛称:ベーブ・ルース、あだ名:バンビーノ)を手離そうとしていたことから彼を巨額のトレードマネーで獲得しました。彼の大活躍でヤンキース在籍14年間で5回の優勝に貢献した反面BSは、1920年以降、2004年まで86年もの長きに渡って優勝できませんでした。

そこで人々は、ルースが自分を不幸に陥れたBSが永久に優勝出来ないように呪っているのだと噂するようになり、ルースのあだ名の「バンビーノ」をとって「バンビーノの呪い」と言われておりました。このことについては、本サイトの雑感記 リーグ物語り「バンビーノの呪い」で触れておりますのでご参照下さい。

フェンウェイパークの全景(この画像はネットから引用させて頂きました)

フェンウェイパークは1912年の完成以来、BSのホームグランドとして使われており、何回か取り壊し案が出されましたがファンの猛反対などで実施できないまま今年100周年を迎えました。ボストンの中心街で充分な場所を確保できず、左翼は後方の大通りを回避するため観覧席を設けずに高い塀で囲うしかありませんでした。その様子は上の写真から覗うことが出来ます。


三塁側から観たグリーンモンスター(この席は$165と最高で入手困難)
(SHINJIのワシントン便りから引用させて頂きました)

上の写真から判りますように、本塁から左翼まで約94.5mしかないことによる本塁打量産を防止するため高さ約11.3mのグリーン・モンスターと呼ばれる巨大フェンスが設置され現在に至っております。それでもこれを越えて大通りまで飛んだ飛球が車に当ることも過去何回か起っております。
下の写真はバスで左翼席後方を走行中に撮ったグリーンモンスター右端の光景です。


グリーンモンスター右端の光景

右翼席後方から観たフェンウェイパーク(画面右側にスコアボード)

2010年に建設されたBS在籍名選手4人の銅像
(テッド・ウィリアムズ、ボビー・ドーア、ジョニー・ペスキー、ドム・ディマジオ)

(4)ボストン市内観光

フリーダムトレイル上の道路の中央に描かれている赤い線
(この場面を撮る機会が有りませんでしたのでネットから引用させて頂きました)

こうして、ハーバード大学、フェンウェイパークの見学を終え、ボストン市内見学をしてから憧れのボストン美術館見学をすることになりました。ボストン市内見学は、ボストンコモンと呼ばれる全米最古の公園から、独立戦争の主戦場、バンカーヒルの戦いを記念して建設された バンカーヒル記念塔までの全長3q弱に渡るフリーダムトレイル上に在る16ヶ所の観光スポットを巡るのが一般的です。

このフリーダムトレイル上の道路の中央に描かれている赤い線(上の写真参照)を辿って行くのでは時間が掛り過ぎるため、今回のツアーでは出発点のボストンコモンを散策してからバスでファニエルホールまで行き、ここで暫し散策してからクインシーマーケットまで再びバスで行き、ここで昼食をとり終点のバンカーヒル記念塔までは車窓見学しました。

ファニエルホール
1740年に市場として建てられその2年後に集会場に転用され、1761年に一度焼失
したもののその後増築、修復が相次ぎ、現在は隣接するクインシー・マーケット
と共に、ショッピングセンターの一角をなしフリーダムトレイルに沿った観光地
のひとつとなり屋根上のバッタの風見はボストンのシンボルになっています

クインシーマーケット(左側)前で昼食をとる女子高生たち
外壁は御影石造り、内壁は赤煉瓦造りの2階建ての長方形ををした古風な建物で
さほど見映えはしませんが、驚いたことに1826年完成以来、そのままの形で同じ
ような食品類を主体に売っているとのこと。店内の昼食で出されたポテトチップスは 多過ぎて半分以上食べ残しましたが地元の女子高生たちは軽く平らげてました

ボストンマラソンのゴールの黄色の線
ガイドさんの説明で慌てて車窓からシャッターを切ったのですが間に合わず、上の写真
のように端の部分しか撮れませんでした。当日はこのように鮮やかに刻字されます
フリーダムトレイルの赤色等、道路にカラフルな線が目立つボストンの街並みでした

ジョン・ハンコックタワーに映る建物の影
全面鏡張りのボストン一の高層ビル(62階 241m)として有名なジョン・ハンコックタワー
の前を通過した時面白い風景を目撃しました。隣の茶色のビルがモザイク目のように
映っているのです。その風景はバスの走行に従い次々に変わりますが、トリニティー
教会の前が最も見映えが有るとのことでしたが時間が無くバスはその前を通りませんで
したので、その様子をネットから引用させて頂き下に掲げさせて頂きました 見事です

ジョン・ハンコックタワーに映るトリニティー教会

ガス灯とレンガ造りの街並みが美しいビーコン・ヒル
ダウンタウン西の富裕層の住宅街でガス灯の街路灯が歴史を感じさせます
かつて丘の頂上で航海上の目印としてかがり火が焚かれていたためにビーコン・ヒル
と呼ばれるようになったと言われます地区内には約10,000人が居住しており横丁の幅
は狭く中央にはグリ石が敷き詰められ、両側にはレンガ敷きの歩道が備えられてます

ビーコン・ヒルの街かどで見掛けた変なモノ
実はこれは、靴底に着いた泥を落とすために玄関先の取り付けられている金具です
冬場は雪深いボストンでは雪道を歩いて靴底に泥が着いたまま家に入るのにここの
住人たちは抵抗を感じたのでしょう それだけ家の中が綺麗になっているのでしょう

昼間でも灯がともされているビーコン・ヒルの街路灯
この街路灯は電灯ではなくてガス灯です。ガス灯独得の仄かな灯りがこの煉瓦造りの
街並みに合うのでしょう でも昼間でも点灯したままにするのは、消灯すると電灯
のように自動的に点灯するのが難しいのではないかと勝手に考えてみたのですが?

(4)ボストン美術館見学
ボストン美術館は、シカゴ美術館、メトロポリタン美術館と並んで米国三大美術館の一つで、浮世絵、古代エジプト王国遺跡の重要な発掘品、フランス印象派の絵画では世界有数の美術館として知られており、その見学は今回の旅行の目的の一つでした。とにかく広い上に、レイアウトが複雑で迷い易く、集合時間に遅れることを心配したあまり思存分に観て回ることが出来なかったのは残念でした。

ボストン美術館の全景

ボストン美術館の日本庭園

ゴッホの「イスに座るジョセフ・ルーラン」
南仏の田舎町アルルで親しくなった郵便局員ジョゼフ・ルーランを描いた肖像画
ゴッホは手紙が好きだった関係で郵便局員に親しみを感じていたようです

ターナーの奴隷船
これが私にとって最も印象に残る作品となりました 初めて観るのに直ぐにその強烈
な深紅色が目に止まったからです ある奴隷船内で伝染病が発生し死亡者が続出、
病死では保険がおりないため船長が奴隷たちを海に投げ捨てて海難事故に見せかけ
ようと画策した事件を題材にしてこの絵は描かれており、鳥や魚が死者に群がって
空と海を不吉な赤に染めることで凄惨さを表現しております 実に印象深い色彩です

「我々はどこから来たのか?我々は何物なのか?我々はどこへ行くのか?」
ゴーギャンのこの大作は一昨年の丁度今頃、地元の名古屋ボストン美術館で日本で
初公開されましたので見覚えが有ります 貧困、病苦、愛娘の死で苦しむ抜いて欧州
を離れ二度目のタヒチで1897年から1年かけて遺言代わりに描いたと友人に告白して
おります 右から左へ赤ん坊から老人までを描いてタイトルの問いを投げかけており
解説は日本で初公開時の解説をご覧ください 正直言って私にはよくわかりませんでした

ルノワールの「ブージヴァルの舞踏会」
女性を美しく表現する名画で知られるルノワールの代表作でモデルは当時モデルを
していたヴァラドン 彼女は後に画家としてロートレックに認められたことから彼を
含め有名画家たちと恋をするも画家として認められ数多くの名画を残すなど洗濯女の
私生児として生まれ私生児を生むなど数奇な生涯を送ったことで知られております
  
ミレーの「馬鈴薯植え」
ミレーは数多く、農夫の姿を描いており、晩鐘落穂拾いなどは中学時代に観て素晴
らしいと思っておりましたが「馬鈴薯植え」はここで初めて観ました これらに共通して
いるのは農夫と大地との対話です。放射能汚染された大地と対話出来なくなった人たち
のことを思うと、この絵の重みが伝わってくる思いがします 慎ましい夫婦の姿が周囲
の風景に溶け込んで何とも言えない雰囲気を醸し出し観飽きません この作品はボストン
美術館の改修工事の期間中に日本<(六本木ヒルズ)で展示され評判になりました

モネの「ジャポネズム」
モネが妻にブロンドのカツラをつけ、虹色の扇子を持ち見返り美人のようにポーズをとら
せて描いたこの作品が1876年の第2回印象派展で異例の高値2000フランで売れたことか
ら19世紀のフランスに日本文化(ジャポネズム)を流行させるきっかけとなりました
  「うちわで芸をする日本女性」との酷評も有ったようですが、日本美術の華麗さを油絵で
表現した作品として、ここでも高い評価を得ております

タイトル不明の浮世絵(主な作品は日本でに示中とのことでした)

メンカウラーの彫像
私はプロフィルで公言しておりますように大の古代エジプト王国マニアです
三大ピラミッドで最小のメンカウラーについてはいち早くハワ−ド率いる英国隊
が正面作戦で玄室から遺体の入った石棺等を英国に運ぶ途中、嵐で沈没、いまだに
海底に眠ったままです 一方ボストン美術館とハーバード大学のライスナー教授率い
るボストン隊は1905年から1927年にかけてピラミッド周辺を丹念に探索し多くの断片
を発見、ボストンに持ち帰って元の形に復旧したのが上のメンカウラーの彫像と下の
メンカウラー王と王妃の彫像です この結果ボストン美術館はカイロは別として世界4
大博物館の中で最も古代エジプト王国遺跡の<重要発掘品の展示品が多くメンカウラー
に関しては本家のカイロを凌いでおります

メンカウラー王と王妃の二人像
祖父のクフ、父のカフラーに較べピラミッドは最小で如何にも権力の低さ 経済力の弱さ
がメンカウラー王に感じられます、私はラムセス2世に次いでファラオとしての彼に好感を
持ちます ピラミッドよりも人民を思い、愛する王妃との二人像を多く残しているからです
若くして亡くなったこともあって凛々しい顔立ちと美しい王妃との二人像はまさに名品です
メンカウラーの彫像の材質、アラバスターより加工し辛い粘板岩が使われているだけに
4500年以上経ってもその黒光りを失っておらずまさに世界の至宝と言うべきでしょう

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