−日記帳(N0.1529)2006年02月20日−
ネパール物語(5)
(ネパールの歴史概要)
−日記帳(N0.1530)2006年02月21日−
ネパール物語(6)
(ゴルカ王朝の誕生と復古)


ネパールの歴史は日本の歴史とよく似ているように思います。何故なら、紀元前7世紀に開かれたとキラティ王朝は同じ時期に即位した大和朝廷の始祖、神武天皇に相当し、史実を伴って歴史の舞台に登場した最初の王朝のリッチャヴィ王朝が開かれた時期が日本でもその存在がほぼ確実視されている仁徳天皇(313-399)の時代と一致するからです。このリッチャヴィ王朝を開いたのは、現在ではネパールを構成する30以上の民族のうちの1つになってしまったネワール族の先祖ですが、現在に伝わるネワール語はチベット・ビルマ系の言語でこの国の主要な言語になっているインド・アーリア系のネパール語と異なる点が注目されております。

これは、カトマンズ平野はかつては大きな湖でそこに文殊菩薩が聖なる剣で周囲の山地を切り開き湖の水を外に流し、ネワール族が居住出来るようにしたとのネパールの有名な神話に何か信憑性を感ずものがあります。現に、近年この地で湖床跡が発見されたこと、ヒマラヤ山脈が太古の昔は海底だったことが実証されていることからも この神話が当時の状態を伝えているように思えてなりません。また日本の大和神話の天孫降臨に通ずるところもあって興味深いものが有ります。

そして、ネパールがリッチャヴィ王朝以来、現在に至るまで王朝を国家元首とする王国を貫いている点でも日本と共通しておりますが、日本のように万世一系でない点と江戸時代の朝廷のように名目上の国家元首ではなく実際に国家を支配していた点でも日本と異なります。そのネパール王朝は次の四つに大きく時代区分されます。

・リッチャヴィ王朝時代
・マッラ王朝時代
・三王国王朝分立時代
・ゴルカ(シャハ)王朝時代

リッチャヴィ王朝は、グンナカマディーヴァ王が現在のカトマンズ市内のバグマティ川とビシュヌマティ川の交差する場所に都を定めた頃、最盛期を迎えましたがその後は各地に小国が生まれては消えていくという繰り返しを続け漸く8世紀にマッラ王朝がリッチャヴィ王朝に代わってカトマンズ盆地を統一し15世紀までこの盆地を支配しました。その後カトマンズ近辺にマッラ王朝は3つの王国(カトマンズ、パタン、バクタプール)に分かれて支配を続けました。

一方、現在のネパール国王であるビレンドラ国王の祖先は、現在のイランがある辺りからインドへ移住してきたクシャトリア民族で、インド西部に住んでいたのですがイスラム勢力の圧迫を受けさらにネパールの山地へ移動し、ゴルカ(カトマンズの西、ポカラとの中間に位置する)を拠点して勢力を増しカトマンズ盆地に侵入したちまちの内にここを占拠して、プリティヴィ・ナラヤナ・シャー王が1768年にゴルカ王朝を開き、現在に至っており、現在のネパール国王のギャネンドラ・ビール・ビクラム・シャハはおの12代目に相当します。この結果、ネワール族のこの地の支配は終焉を迎えましたがその後も商人や官吏として宮廷内などで影響力を維持しおります。


ネパール全土を統一したゴルカ王朝はチベットやインドへの侵入を図りますが、19世紀初めにインドへ侵入した英国軍と衝突してゴルカ戦争を引き起こしました。英国軍3万、60門の大砲、迎え撃つネパール軍は1.2万の兵力で平地戦では優勢であった英国軍も山間部ではネパール軍に苦戦を強いられ大量の武器と兵力の補充で劣勢を挽回し、ネパール軍をカトマンズへ敗退させて勝利しました。戦争の長期化と清軍の参戦を恐れた英国は1816年にインドのスガウリでネパールと講和条約を締結しゴルカ戦争は終結しました。

スガウリ条約はシッキム、ダージリン英国への移譲、タライ平原の一部の割譲(代償としてイギリスは年20万ルピーをネパールに支払う)カトマンズに英国総督代理を置くことを認めるという内容でした。この戦争を通して英国はゴルカ王朝の兵士の勇猛な戦いぶりを高く評価して傭兵として雇いそれまでの土民兵と言う最下級のランクから英国正規軍を意味するライフルマンという地位に格上げしました。そして、インドで東インド会社への不満に端を発して起こったセポイの乱にこのゴルカ兵を傭兵として雇い勝利しました。

ゴルカ戦争の後に王家と婚姻関係を結ぶことが出来る4家の貴族の一つであるラナ家が国内政治の実権を握り、1846年からは王家に代りラナ家による専制支配のもとでインドの後押しにより鎖国が行われました。 1951年にインドの調停のもとでゴルカ王朝が復権し、トリブバン王による王制復古が行なわれ鎖国は政策は終止符を打ちましたが、ラナ家の政界へ影響力は現在でも強く、市内のあちこちにラナ家出身の政治家や軍人の銅像が建ております。

このようにインド独立をきっかけにネパールは1951年にインドの調停のもと、初の民主化と王政復古を実現しました。その後インドの援助によりジャングルの開墾、飛行場、自動車道の造成が進められ、ネパールとインドの間は人や物資の往来が盛んになりましたが、新たな問題が顕在化してきました。それは、インド系民族の多く住んでいた南部のネパールのタライ地方に、自国インドの近代化による貧富の差の拡大で多くのインド人労働者が流れ込んできたからです。

そして、それから10年後の1960年に先代国王のマヘンドラ国王が突然クーデターを起こし、当時の内閣閣僚を全員罷免、政党の全てを解散させ国王に忠誠を誓う者だけを登用しました。更に1962年には国王親政の憲法を発布、民主化勢力であるネパール会議派や左翼政党党員等を投獄するなどし、新聞、ラジオ等の主用メディアを押さえ、国民は国王や王室、政府に対する不満の表現をゆるさなかった。その様な経緯の中、タライ地方のインド化に危機を感じたネパール政府はネパールで働くインド人労働者に対し労働許可証の取得を義務づけることで圧力をかけました。こうして、王政復古と民主化の矛盾が顕在化してきたのでした。


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