−日記帳(N0.1537)2006年02月28日−
ネパール物語(7)
(ネパール現代史)
−日記帳(N0.1538)2006年03月01日−
ネパール物語(8)
(王族殺害事件以降のネパール史)


ビレンドラ国王

1960年、マヘンドラ国王は中国革命の影響を恐れるあまり突然クーデターを起こして当時の内閣閣僚を全員罷免した上、政党の全てを解散させ国王に忠誠を誓う者だけを登用し「パンチャーヤット(5人組)制度」による政治が行われましたが、地下に潜っていた非合法政党の指導者達は、民衆の不満を上手に煽り国民を民主化運動へと導いた結果、民主化勢力は現憲法や政治体制の破棄と多数政党の承認を求めて激しく政府と衝突しました。

1972年、父、マヘンドラ国王の死去によりビレンドラ国王が即位しましたが、身びいき、腐敗、外国からの援助が王族へ流れその財源となる状況は1989年まで続いた反面、ネパール人は長年の窮乏と、インドによる貿易禁輸措置をこうむり我慢も限界にきていました。そのような情勢下でついに1990年に民主化勢力が勝利し、4月には国王が多数政党の承認、新憲法の制定、立憲君主制への移行を発表し、初めて18歳以上の有権者による普通選挙が実施されました。そして、1997年には僅か7ヶ月間でしたが共産党を含む左翼統一戦線が政権の座についたことも有りましたが、ネパールの人びとの絶望的なまでの貧困は解決されないばかりか、人口の3分の1にのぼる少数民族は全く忘れられた存在となりました。

1991年5月には憲法に基づきネパール初の選挙が行われ、ネパール会議派とネパール共産党が投票の大部分を分けた結果、ネパール会議派が単独過半数を得てコイララ政権が誕生しましたが、政党内の主導権争いにより内閣人事はおろか、主要国の大使さえなかなか決まりませんでした。30年間国王親政の政権に行政を任せていた結果、政権を取り戻したネパール会議派に行政能力はなく、派閥争いに明け暮れるインドの傀儡政権ができたに過ぎませんでした。結局、汚職、身びいき、インド寄りの政策への国民の批判、党内の対立に加え、野党第一党であった共産党が攻撃を加え、分裂した旧ネパール会議派と連立し1994年半ばに内閣不信任案を上程、首相は994年11月、国会を解散して退陣し再び総選挙が行われました。

その結果、共産党が第一党となり、アディカリを首相とする共産党政権が成立しました。しかし95年9月10日、ネパール会議派、国民民主党などによる内閣不信任案が可決され、共産党政権は崩壊し、ネパール会議派、旧王政派、友愛党などが連立政権が樹立されました。 そして、2001年6月に世界に衝撃を与えたネパール王宮での王族殺害事件が発生したのでした。


ギャネンドラ国王

2001年6月1日、衝撃的なニュースが世界を駆け巡りました。CNNは「かくも多くの王族が一度に殺害されたのはロシア革命以来」とこのニュースを報道しました。6月1日の夜、ネパールの首都、カトマンズのナラヤンヒティ王宮でビレンドラ国王は家族と夕食をとっていました。そこには、ビレンドラ国王の弟のギャネンドラ殿下を除く一族全員が参席しておりました。そのメンバーはビレンドラ国王夫妻、国王の弟のディレンドラ殿下の家族、国王の長男のディベンドラ皇太子、次男のニラジャン殿下、長女のスルティ王女、ギャネンドラ殿下の妻のコマル王妃、長男のパラス王子など王族12名でした。

ここで惨劇が起こりました。何者かが銃を乱射し、ディベンドラ皇太子、コマル王妃、パラス王子除く9名が死亡、ディベンドラ皇太子が重態となっているのが発見されたのです。翌朝の報道では、ビレンドラ国王の長男であるディペンドラ皇太子が、両親に結婚を反対され、言い争いの結果、自動小銃を乱射して一族を皆殺しにした挙句、自らも自殺をはかったというストーリーでした。しかし、その後、内務相は「事件は全くの事故であり、生き残ったディペンドラ皇太子が11代国王の座につき、ビレンドラ国王の弟であるギャネンドラ王子が摂政となった。」と発表しました。

ビレンドラ国王らの遺体は王宮前の広場で即座に焼かれ、事件の3日後、即位したばかりで重態だったディペンドラ国王が病院で息を引き取り、ギャネンドラ摂政が12代国王となりました。奇妙なことに事件の夜、ギャネンドラは地方巡視で惨劇のあった王宮におらず、また息子でこれまで何回も殺人を犯していながら、その罪を問われなかったパラス王子が皇太子になりました。彼は事件の夜、ディペンドラ皇太子と行動を共にしていながら、かすり傷すら負っておりませんでした。

ギャネンドラ国王の戴冠式は、民衆の抗議のデモでもって迎えられました。外国の報道は、ビレンドラ国王を英国式の立憲王制に例えて英君として称え、弟のギャネンドラ新国王を王制復古派の悪玉として非難しておりましたが事実は謎に包まれたままになっております。ビレンドラ国王は「ビシュヌ神の化身」と崇められ、立憲君主として尊敬されていただけに、この事件はネパール国民にとってあまりにも衝撃的で悲しいことでした。この事件には公式発表および政府のその後の対応に次のように不可解な点が有りますが、事件現場の王宮は言わば治外法権の別世界のため警察が立ち入れず事件の解明は事実上不可能と考えられます。 。

・王族が全員集合していたのにギャネンドラのみ欠席
・ギャネンドラの妻、長男のみ生き残った
・警護中の国軍が銃撃音に気付かなかった
・ディペンドラの自殺が不自然(弾丸が後部から発射)
・葬儀が性急かつ非公開で行われた

2005年2月、ギャネンドラ国王は国内に非常事態を宣言するとともに、デウバ首相をタバ首相に更迭し全閣僚を解任し、向こう3年間自ら親政を敷くと宣言しました。この政変を国王の絶対王政復活と批判する向きも有りますが、大臣、官吏の恒常化した莫大な収賄の禍根を断ち切ることと全土の6割を掌握したと伝えられる毛派(マオイスト)に対する早期制圧を促すための国王の英断と評価する向きも有り事態は混沌としております。毛派と国軍・警察との対立や衝突で既に、市民を含む約15,000人が犠牲になっており政情不安で観光業は落ち込み、経済にも影響が出始めているようです。

現に、先月行なわれた国王の民主化路線の地方選に反発してボイコット運動が全国的に広がり、マオイストによるテロ活動がカトマンズで起こり、更に2月26日にも今回の訪問先のポカラで治安部隊を標的にした爆弾事件が発生し11名が死亡する事件が発生し予断を許さない情勢になっているのが心配ではあります。


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