(2) 相聞歌が詠われた時の背景

中でも私にとってショックだったのは、額田王は大海人皇子と別れて直ぐに彼の実兄で時の権力者だった 中大兄皇子(なかのおおえのおおじ)のもとに、大海人皇子との間にできた十市皇女を連れ子にして嫁いでいる(正確には後宮)ことです。
愛人の多かった中大兄皇子が当代一の美人と伝えられる額田王に目を付けないわけはないと思いますがどんな事情で額田王が兄の中大兄皇子に嫁いだのか定かではありません。

中大兄皇子は皇位を実子の大友皇子の母の身分が低いこともあって、実弟の大海人皇子に譲ると公言しておきながら、大友皇子が成長する程に可愛さのあまり翻意するような態度をとりだし、身の危険を感じた大海人皇子は相聞歌が作られた3年後の671年に難を逃れるべく吉野に出家しております。

また、この相聞歌が作られた3年前の665年に十市皇女は、15才で大友皇子と結婚しているので額田王が天皇の母や祖母になる可能性が有りましたが、もし大海人皇子との艶聞が洩れたらその可能性が無くなるだけでなく彼女にも身の危険が及ぶ恐れが有ったと考えられます。
つまり、相聞歌が作られた当時は額田王、大海人皇子にとって艶聞はタブーだったはずです。

当時、都は白村江の勝利に乗じて新羅が日本に攻めて来た場合のことも配慮して 大津に遷都されており、その近くの蒲生野(八日市市、蒲生郡安土町との説が有力) にあったと思われる宮廷直轄の御料地で668年5月5日の遊猟の日に宮廷行事の遊猟が行われ、 相聞歌はその最中に詠まれたと言われております。
遊猟では男は鹿狩りをして不老長寿の薬と信じられていた鹿の袋角を取り、女は薬草摘みをしていたと言われて おりますので、馬に乗って鹿狩りをしていた皇子が紫野(高貴な染料のムラサキを栽培していたらしい)か標野(しめのと読み、しるしを付けて一般の立ち入りを禁止した土地)に来て、そこで薬狩りをしていた額田王を見つけて手を振ったのがこの相聞歌の背景と言われれております。

問題は当事者にとってトップシークレットのはずのこの相聞歌がどこで披露されたかですが、所詮定説は無いのですから謎のまま秘密のヴェールに包んでおくのがいいと思います。

年齢的にもこの二人は40才前後の子持の中年同志です。このように考えていくと私のこの歌にかける思いは味気無いものになってしまいました。 でも謎めいた額田王はやはり私にとっては永遠に魅力の有る憧れの女性です。 ただ年をとった分、私の見方が変わってきただけのことです。 そんなことで、この額田王のまわりのことについていろいろと調べてみようと思い立ったわけです。

そのためには、この額田王が生き抜いた飛鳥の時代はどんな時代だったのか、特に彼女とその家族が巻き込まれた二つの大事件「白村江の戦い」[壬申の乱」の時代背景を探っていくことで彼女を浮き彫りにすることを試みました
ところが、そうした時代背景を探っていくうちに、血生臭い骨肉の争いの中で若くして逝った皇子たち、そしてその陰で泣いた多くの女性たちのことを知るに及んでこの時代の魅力にとりつかれ、確たる史実が無いことをいいことにし想像を巡らすあまり額田王が霞んでしまったことを予めお断りしておきます。

前 頁 へ次 頁 へ
P−2
inserted by FC2 system