雑感記 第22章 サダム・フセイン物語

サダム・フセイン物語(1) サダム・フセイン物語(2)

聖墳墓教会岩のドーム嘆きの壁
(キリスト教の聖地)(イスラム教の聖地)(ユダヤ教の聖地)


今回のイラク戦争や、サダム・フセインと言う独裁者が出現した背景にはイスラム教、そしてこのイスラム教と対立するキリスト教、ユダヤ教との関係を無視することは出来ないと思います。そこで、今日はこの三つの宗教の関係を歴史的に纏めることで、遠目から独裁者サダム・フセイン誕生の背景に迫ってみたいと思います。現在のパレスチナ、イラク問題に共通する遠因はキリスト、イスラム、ユダヤの各宗教の聖地がエルサレムと言う同じ地になってしまったことにあると思います。

これら三つの宗教の原典は旧約聖書で共通だったのに教典の違いから分かれてしまいました。ユダヤ王のソロモンが建てた神殿は新バビロニア帝国により、その後ヘロデ王が建てた第2神殿はにローマ軍によってそれぞれ破壊されましたが、その際に神殿を囲む西側の外壁が残り「嘆きの壁」としてユダヤ人の心の故郷として今日に至っております。

一方、キリスト教徒にとってエルサレムはイエス受難・復活の地でゴルゴダの丘の上に建つ聖墳墓教会はイエスの墓の所在地であり、イスラム教徒にとっては始祖マホメット昇天の地の「岩のドーム」の所在地ですから、まさにエルサレムは三つの宗教にとってこころの故郷であり聖地でもあります。

これら三つの教徒は有史以来三つ巴になって争いますが、まずキリスト教とユダヤ教の抗争の起点は、ユダヤ人のユダがユダヤ人のキリストを裏切りそれがもとでユダヤ人がユダヤ人のキリストを処刑したことにあります。これは同じユダヤ人同志で起こった事件なのに、キリスト教徒たちはこれをを度外視して、ユダヤ人を自分たちの教祖を殺害した憎むべき民族として見るようになってしまいました。

そのひとつの現れが、11世紀のバチカンのキリスト教会によるユダヤ人の職業追放だと思います。この結果、 「ベニスの商人」の悪役のユダヤ人シャイロックに象徴されるように、ユダヤ人は数少ない残された職業として高利貸し、両替商などの金融業に就かざるを得なくなり、その結果いろいろな国々で経済を支配するようになります。

しかし、これが、「ユダヤ人は経済的な手段で世界を征服しようとしている」とする「シオン長老の議定書」や、ナチス・ドイツによるホロコーストなどの反ユダヤ運動に繋がり、更には米国経済を支配して米国にイスラエル擁護の圧力をかけてパレスチナ問題を引き起こすきっかけを作っております。サダム・フセインがこのホロコーストの主役ヒットラーを尊敬しているのは憎むべきユダヤ人を大量に殺害したことにあるように思われます。

一方、旧約聖書「創世記」によれば、キリストの先祖であるユダヤ人のアブラハムとエジプト人のメイドとの間にできたイシュマエルが実はイスラム民族の始祖になりその子孫のムハンマドがイスラム教の預言者となりますから、ここにキリスト教、ユダヤ教、イスラム教の接点が窺われます。 「ユダヤ民族の歴史(5)にあるように、アブハラムが99歳の時、神から約束された「カナンの全ての土地をあなたとその子孫に永久の所有地として与える。」と言う有名な「アブラハム契約」こそ、イスラム教徒とユダヤ教徒の対立・抗争の起点です。このカナンの地こそ現在のイスラエルであり、モーセの死後、ヨシュアがこの土地を略奪したのも、第二次大戦後英国の二枚舌外と米国での経済力を背景に現在の地に強引に居座っているのもこの神との約束の存在が有ったからにほかなりません。

そして、最期にイスラム教徒とキリスト教徒の関係は、1096年から1291年まで7回に渡って英独仏のキリスト圏連合国による十字軍とイスラム教王朝の間で聖地エルサレムの領有を巡って争われた十字軍戦争に尽きます。この戦争は最終的にはイスラム側の勝利に終わり、1917年にオスマン帝国軍がイギリス軍に破られるまで、エルサレムはイスラム王朝の支配下にありました。 その第三回の十字軍戦争でサダム・フセインとの接点が見られるようになります。
この十字軍の戦いで勇名を馳せたイスラム王朝の王様がサダム・フセインの生い立ちに大きな影響を与えたと言われております。その王様はサラディンと言う名のクルド人で、バクダットの北およそ100kmのティクリットで生まれ、初めアレッポ(北シリアの都市)のザンギー朝に仕えた後にエジプトに入り、ファーティマ朝に仕えて宰相となりファーティマ朝を廃してアイユーブ朝を開きました。このティクリットこそ、サダムの故郷で現在、ここにサダムとその一族郎党が逃げ隠れている可能性大とされております。

更に、アッバース朝のカリフからスルタンの称号を得て、エジプト・シリア・イラクに領土を拡大し、イスラム勢力を結集して1187年にハッティンの会戦で十字軍を破ってエルサレム王国から聖地エルサレムを90年ぶりに奪回し、その後1192年には英国王リチャード1世の軍と戦い、この聖地エルサレムを守り抜いて休戦条約を締結しましたがその勇猛な戦いぶりからサラディンはイスラム教徒の間で英雄視されただけでなく、キリスト教徒のエルサレム巡礼を許す寛容さは当時のキリスト教徒たちにも大きな感銘を与えました。

サラディンはエルサレム入城に際し、虐殺や破壊などは行わず、キリスト教徒を異教徒として迫害せず共存する政策をとったため、キリスト教徒からも敬愛されたと言われております。もともと、イスラム教は他宗教を排他するようなことはせずに共存する教義が有ることはスペインに侵略したイスラム教徒たちがキリスト教文化と融合して独特のスペイン文化を作り上げたことでも歴史的に立証されていると思います。

フセイン大統領は、この英雄サラディンの生まれたティクリット郊外の寒村の農家のアルマジド家の息子として生まれ、幼い頃から英雄サラディンの感化を受けていたようです。ただ、サラディンと徹底的に違うのはサラディンと同族のクルド人を化学兵器で迫害し、キリスト教徒を敵視する政策をとったことです。クルド人についてはこの日記帳の2月24日に触れておりますが、メソポタニア地方で都市国家を作ったシュメール人が先祖と言われるだけに優秀な民族で、サラディンの頃は現在のようにトルコ、イラク、イラン、シリアから迫害されることはなかったようです。

クルド人がこのようにアラブ諸国から迫害されるようになったのは、オスマントルコ帝国崩壊の過程で西欧の列強に加担した結果アラブ諸国の植民地化が加速されたことに対する反感と、その後アラブ諸国内に留まって独立運動を展開することに対する危機感がアラブ諸国中央政府の間に共通に有るからです。

草原を切り開いて作られたこの人口数万人の小都市ティクリットは、バグダッドとチグリス川沿いにハイウエーで結ばれ、原油収入を投じて国内でも最高水準の大統領宮殿、凱旋門、大学、病院、高速道路などがに造られて急成長し、まさにフセインの街の様相を呈しており、もしフセイン大統領がバグダッドから逃れるとすれば、ここしかないと言われている街でもあります。ティクリットの出身者は「大統領の同郷者」として政権や軍の要職を占め、フセイン大統領の親衛隊である共和国防衛隊の精鋭にもこの街の出身者が多いと言われております。

米国はこのティクリットの大統領宮殿の地下壕などに大量破壊兵器が隠されている可能性が有るとの疑いを強めておりますのでバグダッド陥落後は、このティクリットの攻略が行われるものと思います。ただ、ティクリットは大統領に最も忠誠を示す側近や共和国防衛隊の精鋭によって守られている上、地下壕やトンネルが張り巡らされていると言われますのでティクリット陥落をもってこのイラク戦争が終結すると考えられております。 今日のCNNによれば、米特殊部隊は5日、大統領の逃走を阻止するためにティクリットと首都間の主要幹線道路の封鎖を開始したと報じておりますので、終結は間近に迫ったように思えます。

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