雑感記 第26章 サダム・フセイン物語

サダム・フセイン物語(3) サダム・フセイン物語(4)

彼が生まれる前に実父アルマジドが交通事故で急死し、母が再婚した継父イブラヒムに育てられます。ところがこの継父がサダムに暴力を振るったりして折り合いは悪く、学費も充分貰えなかったため小さい頃からアルバイトをして学費を稼いだと言われております。10才の頃、母方の伯父のハイララ・タルファ氏に引き取られてバグダッドに移住し、ここで伯父の娘サジダと結婚しております。彼は小さいときから故郷の英雄サラディンやナチス・ヒットラーに憧れていたこともあって軍人志望が強く、バクダッド士官学校に入学を試みましたが学校の成績が芳しくなかったため断念してエジプトに渡ってカイロ大学を卒業後、バグダッドに舞い戻りバグダッド大学に入学して卒業し弁護士を目指しておりました。

イラクは1932年に独立を果たしたものの、ファイサル殿下による政権はは英国の傀儡政権で、そのファイサル殿下1年後の1933年に療養先のスイスで死亡、息子のガジ殿下が後を継ぎだものの1939年に車を運転中に事故にあい死亡し、1人息子のファイサルU世はまだ4才になったばかりで国政が取れる状態ではありませんでした。

1941年にはガイラニー等の将校によるクーデターでファイサル国王一家は一時国外退去させられたものの英国の力で復権し、 第2次世界大戦では英国に反発してドイツ側についたり、イスラエルを攻撃したりしたことから判るように国王の統制力に問題が有り、まさに革命前夜の状態でした。

そして1958年7月14日、イラク自由将校団と名乗る軍人グループよるクーデターでファイサル国王とイラー皇太子が殺害されイラク革命が起こりました。この自由将校団を率いたのはカシム准将で、自ら首相に就任しイラク共和国が誕生しましたが、副官のアーリフ大佐を意見の相違により国外追放してしまいました。

サダム・フセインはその2年前の56年のスエズ戦争(第二次中東戦争)でエジプトのナセル大統領を支持し、19才の若さでバース党(アラブ復興社会党)に入党し、59年にはバース党のテロ組織の一員としてカセム首相暗殺を計って失敗し、エジプトに逃れております。しかし、この暗殺計画で、「ティクリットにフセインあり」と勇名を馳せ一躍その名がが知られるようになりました。

そして、63年に帰国後政治活動、投獄、脱走、地下活動を繰り返しましたが、この年に国外追放されたアーリフ大佐がバース党の支援を得てクーデターを起こしカシム首相を追い落とし、自身が大統領に就任しますが3年後に死亡したため兄が大統領に就任しました。

バースはルネッサンスを意味し、その思想は7世紀以降イスラム帝国として栄えたウマイヤ朝やアッバース朝の復活を目指し、その教義はミシェル・アフラクとサラフディン・ピタールの2人のシリア人が体系付けていることから判るようにその起源はシリアに有ります。

イラクでアーリフ大佐がイラク・バース党の支援を受けて政権を取ると、本家のシリア・バース党がイラク・バース 党に接近したため、アーリフ(弟)大統領はイラク・バース党を非合法としてしまいます。結果的に裏切られた形になったイラク・バース党は猛反発してクーデターを起こし、アーリフ(兄)大統領を倒してバクル将軍が大統領に就任しました。

実は、これがサダム・フセインに幸いしました。バクル将軍が同じティクリットの出身者であったことから、彼の 大統領擁立に東奔西走して駆けずり廻りながら、自分自身も彼に引き上げてもらったのです。そのお陰でサダム・フセインはバース党内で若くして重要な役職に就くことができました。69年には、32才の若さで革命評議会の副議長となり、国内の治安組織網を整備するとともに、反対勢力の粛正を進め、79年、バクル大統領が健康上の理由で引退を表明したのを受けフセインが大統領に就任したのです。

サダムが政治の世界に入るきっかけを作ったのは育ての親である、母方のおじに当たるハイララ・タルファ氏と言われております。彼を通して、同郷の先輩でバース党幹部のバクル氏と知り合い、これがきっかけで57年、同党に入党し権力の階段を駆け上ることになったからです。

バクル氏がが68年にクーデターを起こして大統領に就任すると、サダムはバクルの後押しを受けて実に31才の若さで最高意思決定機関である革命指導評議会の副議長に就任してナンバー2の地位を得ました。このように異例早さで出世したのは、サダムが治安・諜報機関を創設することでバース党独裁体制の基礎を確立してバクル大統領の右腕にのし上がったからと思われます。従って、79年のバクル大統領が引退に当たっては当然の成り行きとしてサダムがその後継者に押されることになりました。

サダムは権力を不動のものにするために、このように身内を重用してガードを固めております。 実父アルマジド家、継父イブラヒム家、義父のトラルファー家の三つの家系と5人の子供をフルに活用しているのです。例えば、アルマジド家の従兄弟のアリ・ハッサン・アルマジド氏を国防相から化学兵器開発の責任者、ブラヒム家のバルサン・イブラヒム氏を諜報局長、トラルファー家のアドナン・ハラッラー氏を国防相に任命しております。米英軍は5日、バスラ市内の「ケミカル・アリ」と呼ばれ恐れられていたアリ・ハッサン・アルマジド将軍の自宅を空爆した結果、将軍のものとみられる遺体が発見されたとしております。

サダムには第一夫人のサジダ夫人のほかに第二、第三夫人の3人に妻と不特定多数の愛人が居りますが、実子として認知されているのは第一夫人の二男、三女の5人のように思われます。その中でも長男のウダイ氏、次男のクサイ氏を要職に重用しております。

長男ウダイ氏はスポーツ大臣でサッカー選手でもありますが、イラク・オリンピック委員会の会長を務めた97年、サッカー・ワールドカップフランス大会アジア予選でイラクが敗退した時に選手にむち打ち刑を命ずるなど横暴な性格の持ち主です。現に、88年には父サダムのお気に入りの護衛官をアントニオ猪木ばりの巨体で殺害したことで父の怒りを買って失脚したものの許されて経営者として力をつけておりましたが、ジュネーブのイラク大使館に勤務していた時に求婚した女性を振られた腹いせに殺害したとか言った女性への陵辱など悪いウワサが後を絶たず、96年には一族内の抗争もあって暗殺未遂に遭い左足の一部を失っております。その後は大人しくなって2000年には国会議員にトップで選出されましたが、サダムにとって厄介者に変わりなく後継者には次男のクサイ氏を考えているように思われます。

次男のクサイ氏は長男よりは物静かな面が有り父サダムの信頼も厚く、共和国防衛隊などイラクの軍事・治安部門を総括し将来の後継者としてナンバー2の地位にあるようです。しかし、反体制派への容赦ない弾圧で知られ、98年にはシーア派教徒数百人を即決裁判で処刑したり、反体制派が多い村落を根こそぎ破壊したりするなど、残虐な性格をも持ち合わせているようです。母がウダイ氏、父がクサイ氏を寵愛しているのが何かサダムと母、サジダ夫人との不仲を物語っているようで興味が有ります。

しかし、こうして一族郎党による王朝支配が強まるほど身内での権力抗争が激化し、イブラヒム家の兄弟同様の仲だった従兄弟のアドナンがヘリコプター事故で謎の死を遂げたり、サダムの長女の婿のカメル中将はミサイルなどの製造責任者として開発を推進してきたもののサダムの不仲からヨルダンに亡命しイラクに帰国後殺害されております。

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