スイス旅行記

1章 スイスの地理と歴史(3)

そして1515年にミラノ近郊でフランスと戦いスイスは叩きのめされたのを教訓にして不戦を誓い、これを国の基本方針としたことが後の永世中立に繋がっていくことになります。 スイス兵の強さが知れ渡り、イタリアとフランスが競ってスイス兵を雇い入れたため兄弟が敵味方に分かれて戦いあう悲劇を防ぎ、大国に侵入される口実を無くすためにも不戦方針は必要だったのです。

17から18世紀にかけて宗教改革による新旧両派の対立や貧困化した農民と都会との抗争等の国内での紛争は有ったものの外国との戦争は無く、比較的平和に推移した上、近隣からの避難民を受け入れる等も評価されて1648年にウェストファリア条約で正式に独立の中立国として承認されたなしたが、 18世紀末のフランス革命でルイ16世を護衛していた800人近いスイス兵が殺害され、更に19世紀に入ってナポレオンのアルプス越えのロシア侵攻を契機に、スイス全土が占領され国名までヘルベキア共和国と変えさせられてしまうという建国以来の屈辱を受けることになります。

幸い、ナポレオンはロシアの寒さに負けてから没落し、1815年のウイーン会議でスイスの現在の領土と永世中立が承認されて現在のスイスの母体が形成されました。 そのためには全ての交戦国に味方しないだけでなく、外国の軍隊がスイス国内を通ることも阻止しなければならないので兵役は国民の義務となり、平時には正規軍はわずか1500人なのに48時間以内に110万人を動員できる防衛体制を保持してその後の独仏戦争、第1,2次大戦を通してスイスは自国内の外国軍隊の通過を一切許さなかったのです。


アルプス3名峰
マッターホルン

美しい4面4稜の
ピラミッドで有名
(草原の角笛の意)
(標高:4477m)
アルプス3名峰
ユングフラウ

アイガー、メンヒと
共にヴァリス連山
の主峰(乙女の)
(標高:4158m )
アルプス3名峰
モンブラン

乳房のような頂上
西欧最高峰で有名
(フランス領内)
(標高:4807m)
スイス最高峰
モンテローザ

マッターホルンの
陰で目立たない
名峰(薔薇の山)
(標高:4634m)
アルプス3大北壁
アイガー

マッターホルン
ジョラスと共に3大
北壁(若者)
(標高:3970m)
アルプスの名峰
リスカム

鞍に似ている
のでヴァリスの銀
の鞍と言われる
(標高:4527m )
アルプス3大北壁
グランドジョラス

鋭く尖った峯峰は
人を寄せ付けない
(フランス領内)
(標高:4208m)
フランスの名峰
ドリュー峰

モンブランの陰で
で目立たないが
知る人ぞ知る
(標高:4634m)

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