前回の台湾旅行の思い出

15年ほど前、台湾を旅行したことが有りました。
当時は在職中で、化学工業機器関連の技術を担当しておりました。
ユーザーで、台湾最大の化学メーカー、台湾プラスチックに技術指導する目的の海外出張でした。

私としては、生まれて初めての海外旅行でしたので1人で行くのが不安でしたが、何とか台北の空港に着き、入国手続きを終えて安堵し、数日前に台湾入りしていた営業マンが出迎えているはずの空港待合室に出向きました。ところが彼の姿が見当たりません。

現在のように、携帯は普及しておりませんから連絡の取りようが有りません。1時間待っても彼は現われません。公衆電話で連絡を取れる知人もおりません。途方に暮れましたが、彼に約束の時間に来られない何らかの事情が発生したものと信じて空港待合室で待ち続けました。待合室の大型画面に、当時台湾で人気絶大だったアイドル歌手の酒井法子の姿が間断なく映っていたのが印象的で、孤独感を癒してくれたことをよく覚えております。

そのことを彼に空港アナウンスで伝えるべく、空港サービスカウンタに出向いて拙い英語で依頼しました。やがて、私が空港内で待ち続けているとの英語アナウンスが空港内に流れました。それから数分後に漸く彼の姿を捉えることが出来ました。やはり、ユーザーとの商談に手間取って遅れたとのことでした。その瞬間は、待ち焦がれた恋人に会えた嬉しさにも似て、今でもよく覚えております。

ところで、訪問先の台湾プラスチックは、王永慶氏が小学校を卒業後、米販売業、材木業などを経て1954年に創業した会社で、石油化学工業を主軸として一代で台湾最大級のグループ企業に築き上げ、台湾の松下幸之助として仰がれております。同社の年間売上額は日本最大の化学会社の旭化成の2倍以上の3兆円で、まさにアジア最大の化学会社として君臨し続けております。昨年10月、米国視察中に死去した王永慶氏(享年91歳)に対して馬英九総統は哀悼の意を表し、王氏の台湾に対する卓越した貢献に最高の敬意を示しておりました。

その日は台北に宿泊し、翌日台湾プラスチックの工場がある台湾第二の都市、高雄に向けて、遠東航空機で台北空港を飛び立ちました。現在、台北ー高雄間は新幹線で1時間半で結ばれておりますが、当時は遠東航空便利用が一般的でした。ただ、その数年前の1981年8月22日に台北を飛び立った遠東航空103便が台北の南南西約150Kmの苗栗県三義郷上空高度6700mを飛行中に突然空中分解して山中に墜落し、乗員6名、乗客104名の110名全員が死亡する事故をよく覚えていただけに不安でした。

よく覚えていたのは、乗客の中に台湾への取材のため搭乗していた人気作家の向田邦子が居られたからでした。私は彼女のファンで、『時間ですよ』『寺内貫太郎一家』『阿修羅のごとく』『あ・うん』『七人の孫』などのテレビドラマは欠かさず視聴しておりました。

1981年の事故原因は、機体の劣化と整備不良とされているだけあって、この時の飛行でも振動が酷くて乗り心地はよくありませんでした。因みに、遠東航空は世界的な原油価格高による燃料費の高騰と、台湾新幹線の開業による需要の落ち込みなどを受けてついに、昨年2008年5月についに運航停止に追い込まれ半世紀の歴史に幕を下ろしております。

2泊3日の出張でしたが、台湾の代理店の台湾人Sさんに高級料理店や高級クラブで接待を受け、その時の台湾料理の美味しさと、美人ホステスの魅力的な接待は今でも忘れらない思い出として残っております。こうして、無事出張目的を果たし、商談のため更に台湾に滞在する営業マンと代理店のSさんと別れて再び、1人で帰国すべく夕方4時頃の台北発名古屋行きのキャセイパイフィックの帰国便の搭乗手続きを終えました。

ところが6時を過ぎても搭乗案内のアナウンスが有りません。8時を過ぎた頃漸く、それらしきアナウンスが有ったのですが英語のためよく聞き取れません。何回か聞いているうちに、帰国便が台風の通過を待って香港空港で待機しているため出発の目処が立っていないことが判明しました。結局、帰国便は6時間以上遅れて10時過ぎに出発できることになったのですが、名古屋には深夜に到着することになりますので、自宅で私の帰りを待っている妻に電話で連絡しておく必要が有ります。

初めての海外旅行の私には国際電話の掛け方が判りません。そこで、一計を案じました。Sさんに頂いた名刺からSさんの自宅の電話番号を調べ、台北在住であることから手持ちの台湾硬貨で通話できそうなことを期待して、Sさんを呼び出しました。幸い、Sさんが電話口に出られましたので、ことの次第を話して自宅に連絡を取って頂くことが出来ました。深夜に突然掛かってきた国際電話を受けた妻は「ご主人のこと、遅れることあるよ・・・・」たどたどしい日本語を聞いて面食らったようでした。

こうして、漸く客席に座ることが出来ました。ビジネス席でしたので乗客は私1人だけで、キャセイパイフィックが日本航空(JAL)と業務提携していた関係でJALの日本人女性FAが付いてくれました。出発便の遅延連絡が遅い上、日本語アナウンスをしなかったキャセイパイフィックのサービスの悪さについて彼女にクレームをつけると、丁重に詫びながら、これまでもFAの立場でキャセイパイフィック側に再三に渡ってサービス改善を要望しても聞き入れてもらえないと話してくれました。

そして、便箋を私に渡し、乗客の立場からキャセイパイフィックに今回の件についてクレームを英文で書くよう依頼を受けました。私は承知して30分ほどかけて書き終えて彼女に渡しました。彼女は感謝しながら、上等のスコッチウイスキーを薦めてくれました。心地よい酔いがまわってきた頃、名古屋空港に着陸しました。深夜の名古屋空港からタクシーで自宅に1時間半で着いた時、既に午前2時をまわっていました。

こうして、最初の海外旅行で散々な目に遭いましたが、台湾滞在中にSさんに案内して頂いた高級料理店で味わった台湾料理の美味しさ、日本人専用の高級クラブで受けたホステスの接待が忘れられず、今回台湾を再訪するきっかけになりました。勿論、後者のホステスの接待は関係ありませんが、忘れられないほろ苦い思い出として心の片隅に残っております。


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