台湾の歴史

(1)明朝以前の時代(太古〜1624年):
300万年から1万年前の氷河期にかけて台湾は中国大陸と地続きで、大陸から人類が移住していたと考えられる一方、中国大陸南部に居住していたオーストロネシア語族が北方漢民族などの圧力を受けて台湾に追いやられて現在の台湾原住民になったとも考えられております。

台湾が東シナ海にある島として中国人にその存在が知られていたことが、「三国志」などの記述によって判明しておりますが、少なくとも明代までは船舶の一時的な寄港地程度の軽い認識でしかなかったようです。そして、清代になって漸く、中国の領土と見なす傾向が現われてきたように思われます。

16世紀の明朝以降、倭寇の活動が活発化して漢民族、日本人が恒久的に台湾に居住するようになる一方、大航海時代の欧州各国から多くの人々が来航するようになり、台湾の戦略的価値を知ったオランダやスペインが台湾島を領有し、東アジアにおける貿易・海防の拠点とするようになりました。日本への鉄砲やザビエルによるキリスト教伝来も、台湾を経由したものと考えられております。

(2) オランダ植民統治時代(1624年 - 1662年):
台湾の領有を確認できる史上初めての勢力は、17世紀初頭に成立したオランダの東インド会社です。東インド会社はまず明朝領有下の澎湖諸島を占領した後、1624年に台湾島の大員(現在の台南市周辺)を中心とした地域を制圧して要塞を築きました。1626年には、スペイン勢力が台湾島北部の基隆付近に進出し、要塞を築いて島の開発を始めましたが、東インド会社は1642年にスペイン勢力を台湾から追放することに成功しております。

オランダによる統治期間中、東インド会社は福建省、広東省沿岸部から大量の漢人移住民を労働力として募集し、彼らに土地開発を進めさせることでプランテーションの経営に乗り出そうとし、その際に台湾原住民がオランダ人を「Tayouan」(現地語で「来訪者」の意)と呼んだことから「台湾(Taiwan)」という名称が誕生したという説もあります。しかし、台湾の東インド会社は1661年から「抗清復明」の旗印を掲げた鄭成功の攻撃を受け、翌1662年には最後の本拠地要塞であるゼーランディア城も陥落し、進出開始から37年で台湾から全て追放されてしまいました。

(3)鄭氏政権時代(1662年 - 1683年):
1644年、李自成の反乱によって漢民族の明朝が滅亡して混乱状況にあった中国に満州族王朝の清が進出してきたため、明朝の皇族・遺臣達は「反清復明」を掲げて南明朝を興し、清朝への反攻を繰り返しましたが力及ばず1661年に滅亡しました。その折に「反清復明」を唱えて清朝に抵抗していた鄭成功の軍勢は、清への反攻の拠点を確保する為に台湾のオランダ・東インド会社を攻撃し、(2)で述べたように1662年に東インド会社を台湾から駆逐する事に成功したわけです。尚、台湾の漢民族政権による統治は、この鄭成功の政権が史上初めてとなります。

東インド会社を駆逐した鄭成功は台湾を「東都」と改名し、現在の台南市周辺を根拠地としながら台湾島の開発に乗り出すことで、台湾を「反清復明」の拠点化を目指したが1662年中に病気で死亡してしまいました。そして、彼の息子の鄭経たちが父の跡を継いで台湾の「反清復明」の拠点化を進めましたが、清朝の攻撃を受けて1683年に降伏し、鄭氏一族による台湾統治は3代、23年間で終了しました。

歴史上の鄭成功は、彼自身の目標である「反清復明」を果たす事無く死去し、また台湾と関連していた時期も短かった。だが、鄭成功は台湾独自の政権を打ち立てて台湾開発を促進する基礎を築いたこともまた事実である為、鄭成功は今日では台湾人の精神的支柱(開発始祖、「ピルグリム・ファーザー」)として社会的に高い地位を占めております。

尚、鄭成功は清との戦いに際し、母の母国でもある日本の徳川幕府に軍事支援を申し入れましたが、当時の情勢から鄭成功の勝利が難しいものであると幕府側に判断され支援は実現しませんでした。しかしこの戦いの顛末は日本にもよく知られ、後に近松門左衛門によって国姓爺合戦(国姓爺は鄭成功の別称)として戯曲化されました。

(4)清朝統治時代(1683年 - 1895年):
建国以来、清朝は、(3)で述べているように反清勢力の撲滅を目指してきた「反清復明」を掲げる台湾の鄭氏政権に対しても攻撃を行い1683年に台湾を制圧して鄭氏政権を滅ぼすことに成功しましたが、あくまでも鄭氏政権を滅ぼすのが目的で、台湾島領有には消極的でした。

しかし、朝廷内での協議により最終的には軍事上の観点から台湾を領有することを決定し、台湾に1府(台湾)3県(台南、高雄、嘉義)を設置した上で福建省の統治下に編入しました。ただし清朝は、台湾を「化外(けがい)の地」(皇帝の支配する領地ではないとの意味)として重要視しておりませんでした。特に台湾原住民については「化外(けがい)の民」(皇帝の支配する民ではないとの意味)として放置し続けてきたため、台湾本島における清朝の統治範囲は島内全域に及ぶことはありませんでした。

清朝編入後、台湾に対岸の福建省、広東省から多くの漢民族が移住し、開発地を拡大していきました。その結果、現在の台湾に居住する本省系漢民族の言語文化は、福建省、広東省と似通ったものとなっております。こうして、漢民族の大量移住に伴い、台南付近から始まった台湾島の開発は約2世紀をかけて徐々に北上し、19世紀に入ると台北付近が本格的に開発されるまでになりました。

この間、台湾は主に農業と中国大陸との貿易によって発展していきましたが、清朝の統治力が弱い台湾への移民には気性の荒い海賊や貧窮民が多く、更には熱帯病や原住民との葛藤、台風などの水害が激しかったことから、台湾では内乱が絶えませんでした。また、清朝は台湾に自国民が定住することを抑制するために女性の渡航を禁止したため台湾には漢民族の女性が少なく、そのために漢民族と平地に住む原住民との混血が急速に進み、現在の「台湾人」と呼ばれる漢民族のサブグループが形成されていきました。

19世紀半ばに欧州列強の勢力が中国に及んでくると、台湾にもその影響が及ぶようになり、1858年にアロー戦争に敗れた清が天津条約を締結したことにより、台湾でも台南・安平港や基隆港が欧州列強に開港されることとなりました。また、1874年には日本による台湾出兵(牡丹社事件)が行なわれ、1884〜85年の清仏戦争の際にはフランスの艦隊が台湾北部への攻略を謀りました。

これに伴い、清朝は日本や欧州列強の進出に対する国防上の観点から台湾の重要性を認識するようになり、台湾の防衛強化の為に知事に当たる巡撫職を派遣した上で、1885年に台湾を福建省から分離して台湾省を新設しました。台湾省設置後の清朝は、それまでの消極的な台湾統治を改めて本格的な統治を実施するようになり、例えば1887年に基隆―台北間に鉄道を敷設するなど近代化政策を各地で採り始めました。しかし、1894年に清朝が日本と戦った日清戦争に敗北し、翌1895年に締結された下関条約に基づいて台湾は清朝から日本に割譲され、それに伴い台湾省は設置から約10年という短期間で廃止され、これ以降、台湾は日本の領土として台湾総督府の統治下に置かれることになりました。

(5) 日本統治時代(1895年 - 1945年):
1895年、日本への割譲反対を唱える漢人により台湾民主国の建国が宣言され進駐してきた日本軍との交戦に発展しましたが、日本軍の圧倒的に優勢な兵力の前に政権基盤が確立していなかった台湾民主国は間もなく崩壊、1896年に三一法が公布され台湾総督府を中心とする日本の統治体制が確立されました。

日本は、台湾総督府を通して、工業を内地、農業を台湾と分担することを目的に農業振興政策を行い、各種産業保護政策や、鉄道を初めとする交通網の整備、大規模水利事業などのインフラ整備を実施し製糖業や蓬莱米の生産を飛躍的に向上させることに成功しました。また経済面では専売制度を採用し、台湾内での過当競争を防止するとともに、台湾財政の独立化を実現しました。

その後近代化を目指し台湾内の教育制度の拡充ため義務教育制度が施行され、台湾人の就学率は1943年の統計で71%とアジアでは日本に次ぐ高い水準に達しておりました。義務教育以外にも主に実業系の教育機関を設置し、台湾の行政、経済の実務者養成を行うと同時に多くの台湾人が日本に留学するようになりました。台湾の併合にあたり、台湾人には土地を売却して出国するか、台湾に留まり日本国民になるかを選択させておりました。

当時の台湾は衛生状態が非常に悪く、多種の疫病が蔓延しており、特に飲み水の病原菌汚染が酷く、「台湾の水を5日間飲み続けると死ぬ」とまで言われておりました。そこで後藤新平が近代的な上下水道を完成させ、更に総督府の技師だった八田與一が烏山頭ダムと万里の長城の6倍以上の16,000kmに及ぶ用水路を建設しました。、李登輝元総統は彼の功績を「15万ヘクタール近くの土地を肥沃にし100万人ほどの農家の暮らしを豊かにした」 と高く評価しております。

烏山頭ダムの湖畔には地元住民によって建設された八田氏の銅像と八田夫妻のお墓があり、現在でも八田氏の命日の5月8日には毎年地元住民による感謝と慰霊が行われおり、李登輝氏以下の歴代の総統も慰霊祭に出席しております。八田氏の功績にについては、本サイトの 「台湾旅行から帰って思うこと(5)」で詳しく取上げております。

このように、日本が台湾で行ったインフラ整備や人材育成が、戦後の台湾の経済発展、民主化に貢献したことは事実で、この辺りに親日的な台湾人が多い事情があるようです。しかし、このような台湾の経済発展、民主化は、台湾の日本植民地化のための手段であって、目的ではなかったことも事実として認めるべきと思われます。

台湾で地方自治要求が提出され、台湾人としての権利の主張が行われましたが当局の弾圧を受けて実らず、 日本化、日本人化を奨励する皇民化運動にも限界が有ったことから、結局自治運動も皇民化運動も実らないまま終戦を迎えたのでした。

台湾と同様に総督府の下で植民地支配を受けた韓国では台湾とは逆に反日的な韓国人が多いのは、台湾人が開放的な海洋民族であるのに対して韓国人が閉鎖的な大陸民族であることに加え、台湾では南京国民政府統治時代の恐怖政治が日本統治時代の長所を浮き彫りにしたのに対し、韓国では朝鮮戦争を経て日本統治時代の短所のみが印象付けられたことにあるように思われます。

(6)南京国民政府統治時代(1945年 -1949年):
1945年の第二次世界大戦後、連合国に降伏した日本軍の武装解除のために、蒋介石率いる中華民国・南京国民政府軍が台湾に上陸し、同年10月の日本軍の降伏式典後に、台湾の「光復」(日本からの解放)を祝う式典を行い、台湾を中華民国の領土に編入し、台湾を統治する機関・台湾行政公所を設置しました。

しかし、行政公所の要職は蒋介石率一派の外省人が独占し、更に公所と政府軍の腐敗が激しかったために、台湾にいた本省人(台湾人)が公所と政府軍に反発し、1947年2月28日に本省人の民衆が蜂起する2・28事件が起きました。蒋介石は事件を徹底的に弾圧し、中国国民党を結成して政治・経済・教育・マスコミなどの独占が完了した1947年に党首・総統として独裁・恐怖政治を開始しました。

2・28事件以降、蒋介石総統の国民政府は台湾人の抵抗意識を奪うために、知識階層・共産主義者を中心に数万人を処刑したと推定されておりますが、国民党が当時の資料公開を拒み続けているため、正確な犠牲者数は未だに判っておりません。大陸から逃れてきた数十万の軍人を養うために大規模開発が必要になったことから鉄道の北廻線や蘇奥港開発などを行い台湾経済は軽工業から重工業へ発展していきました。結果的にこれが後の台湾近代化に貢献しました。

一方大陸を完全に掌握した共産党は、台湾攻略を目標とした金門島攻撃に着手したものの、海軍及び空軍兵力に劣る人民解放軍は制海・制空権を掌握できず、要塞に立てこもる国民党軍や、台湾海峡を航行するアメリカ第七艦隊を打破することができず、金門島侵攻を放棄しました。

共産勢力に対抗するためにアメリカは台湾を防衛する意志を固め、蒋介石に種々の援助−美援(美国援助=米国援助)を与え、更にベトナム戦争が勃発すると、アメリカは台湾から軍需物資を調達し、その代償として外貨であるドルが大量に台湾経済に流入したことで、台湾経済は高度成長期に突入しました。

日本による植民地統治の影響から日本との経済的繋がりが強かった台湾はこの頃からアメリカ経済との関係を親密化させ、多数の台湾人がアメリカに留学したり、そのままアメリカに在住して台湾とのビジネスを始めたことからネットワークが構築され、中でも台湾人が多く住んだカリフォルニアの影響を受けて電子産業が育ち、Acerなどの国際メーカーが誕生していきました。

政治的には国民党独裁が続き、台湾民主化・独立運動は日本、後にアメリカに移住した台湾人を中心に展開されることとなった。しかし1970年代に入ると美麗島事件が発生し、その裁判で被告らを弁護した陳水扁、謝長廷らを中心に台湾内で民主化運動(党外運動)が盛んになっていきました。蒋親子の死後、国民党主席についた李登輝は台湾の民主化を推し進め、1996年には台湾初の総統民選を実施、そこで総統に選出されました。

社会的には蒋介石とともに大陸から移住して来た外省人と、それ以前から台湾に住んでいた本省人との対立、さらに本省人内でも福老人(福建省出身の漢民族)と客家人(漢民族から分枝した特徴的な民族)の対立が有りましたが、国民党はそれを強引に押さえつけ、普通語教育、中華文化の推奨などを通して台湾の中華化を目指しました。

こうして台湾は、国際的にはアメリカの庇護下で、韓国・日本・フィリピンとともに共産圏封じ込め政策の一翼を担ってきましたが、ベトナム戦争の行き詰まりから米中が国交を樹立すると、台湾は国連から追放され、日本からも断交されるに至りました。しかしアメリカは自由陣営保持の観点から台湾関係法を制定し台湾防衛を外交の基本として今日に至っております。

日本は日本国との平和条約(サンフランシスコ講和条約)や日華平和条約において台湾の領有権を放棄したものの、両条約ではいずれも台湾の中華民国への返還(割譲)が明記されていないことから、現在も台湾は中華民国によって占領されているだけで最終的な帰属国家は未定であるというとの解釈(台湾地位未定論)が存在し、更に国連と中国への配慮もあって日本は台湾を国家として認めておらず、両国に正式な国交は自立されておりません。

(7)台湾総統選挙時代(1996年 - 現在):
李登輝は永年議員の引退など台湾の民主化政策を推進しましたが高齢のため2000年の総統選には出馬せず、代わって民進党の陳水扁が総統に選出され、台湾史上初の政権交代が実現しました。陳水扁は台湾の独立路線を採用したため統一派の国民党と再び衝突し、政局は混迷を続けるようになりました。

2004年の総統選では国民・民進両党の支持率は拮抗していたのですが、僅差で陳水扁が再選を果たしました。混迷の原因の一つは中国問題で、中国は陳水扁を敵視し、国民党を支持することで台湾政界を牽制しましが、その過度な干渉となると台湾ナショナリズムを刺激し、反中国勢力が台頭するという中国にとっても難しい問題となっております。

そして昨年の総統選は、陳水扁総統の与党・民進党(台湾独立派)の謝長廷候補と国民党(中国との統一派)の馬英九候補の間で争われ、(国民党)=58%、謝長廷(民進党)=41%の結果をもって8年ぶりに国民党が政権に就きました。理想は高いものの現実政治を知らない民進党、長く政権を握っていたため人材が豊富な国民党の差が出た選挙結果でした。

台湾のメディアの殆どは国民党寄りで、投票直前にチベット騒乱が起こり、「だから中国は危険だ!」と謝長廷は叫んで巻き返しを図りましたがメディアに無視される一方、メディアは民進党政権の失政を徹底的に追求した結果、陳水扁総統の親族の汚職が暴露される事態になり、国民党の優位は揺るぎませんでした。

馬英九総統は、学生時代に尖閣諸島還回を主張する活動を続け、2005年6月の党主席選挙では「尖閣諸島還回のために日本と一戦を交えることもいとわない」と発言したり、台北市長の頃、買春目的容疑で日本人を逮捕したりするなど、対日強硬姿勢をとることで知られております。昨年6月10日に、尖閣諸島沖で台湾の遊漁船が日本の巡視船と接触し沈没した事故をめぐり、馬英九総統の側近、劉兆玄・行政院長(首相)が馬英九総統の意向を代弁する形で「場合によっては日本に宣戦布告することも辞さない」と発言したことから、日台間に険悪なムードが漂ったことが有りました。幸い、海上保安庁側の譲歩なども有って鎮静化しましたが、今後に問題を残しそうです。



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