台湾旅行を終えて思うこと(3)
台湾旅行を終えて思うこと(4)


台湾大学正門(上は前身の台北帝大当時 下は現在)

今回の台湾旅行で強く印象に残ったのは、台湾の人たちの親日的な対応でした。15年前の訪台は台湾の会社からのクレーム処理が目的で客としてでなかったこともあって親日的な対応に触れる機会は有りませんでした。また、台湾と同様に日本による統治の歴史を持つ韓国にも仕事で訪れておりますが、親日どころか反日的な対応に戸惑った苦い経験をしております。

今回の旅行で、台中で昼食を摂った時、90歳になる店主が、かって日本人に世話になったことを懐かしげに日本語で語りかけてきたり、日本語を見事に話す免税店の女性店員たちが日本語を話せることに誇りを持って接しているように思われたことなどに台湾の人たちの親日的な対応を垣間見る思いがしました。

そして、その親日的な面をある二つの建物に見る思いがしました。
まずそのひとつが、冒頭に示す台湾大学の正門の今昔風景です。
この風景はバスの車窓からチラリと見ただけですが、その時、現地ガイドさんが、「この建物は昔の台北帝国大学の時のままです」と説明されたのに感動を覚えたのです。

日本統治時代、日本は明治維新以来培ってきた数々の近代化制度を台湾に導入しましたが、その象徴がこの台湾大学です。日本では帝国大学が1877年の東大を皮切りに京大、東北大、九大、北大、阪大の順に、最後に名大が1939年に創設されましたが、台湾に名大、阪大が創設される以前の1928年(昭和3年)に、京城帝国大学に次いで7番目の帝国大学として台北帝国大学が創設されました。

戦後、台北帝国大学は台湾大学に生まれ変わり、今や日本の東大に相当する台湾の最難関大学となっております。そして私が帰国後ネットを検索した結果、この台湾大学の正門が冒頭の画像に示すように台北帝国大学創建当時と殆ど変わらずに残っていることを知り、ガイドさんの話から受けた感動が更に深まったのでした。

しかも、正門の門柱とその後方の国旗掲揚塔が1928年の創建当時のまま使われ、台北市の市定古跡に指定されていることを知りその感を更に深くしました。この建物はバスの車窓からまともに見ることが出来ませんでしたので「旅旅台北.COM」から下に引用させて頂きました。


親日的な面を物語る二つめの建物は下に示す、日本統治時代の総督府の建物です。この赤レンガの建物は東京駅(1914年完成)と同じ設計家の辰野金吾によって1918年に建てられもので、1945年に米軍による空爆で焼失したものの戦後元通りに再建され現在は、国の一番大切な建物である台湾政府の総統府として使われております。尚、この建物もバスの車窓から見ただけで、デジカメで撮る余裕があいませんでしたので、サイト管理者が命がけで撮った画像を彼のサイトから引用させて頂きました。


台湾と同様に日本の植民地支配を受けた旧朝鮮の朝鮮総督府は、反日思想の高まりに伴って日帝時代の忌まわしい建物として1995年に尖塔部分のみを残して庁舎は解体されてしまったのに対し、戦災で破壊されたの敢えて当時のままに復元して、国の最も重要な建物として使用しているところに台湾の人たちの親日ぶりが窺える思いがしたのは私だけではないはずです。何故、台湾の人たちがこのように日本統治時代の建物を壊さずにそのまま残すような親日的な態度を示すようになったかを、明日の日記、「台湾旅行を終えて思うこと(4)」で纏めてみたいと思います。


台湾最大の湖、日月潭(筆者撮影)

台湾の人たちの親日的な対応の原点は、日本が台湾統治時代に行なった政策に有ると言われております。 1895年、日清戦争で勝利した日本は下関条約により台湾を清国から割譲されたことを機に台湾の統治を開始しましたが、台湾在住の清朝の役人と中国系移民の一部が反発して台湾民主国を作って日本に抵抗しました。しかし日本軍はいとも簡単に傭兵主体の台湾民主国軍を排除したことから、1915年の西来庵事件を最後に漢民族による武装抗日運動は収束しました。

これを受け、日本は台湾総督府を通して鉄道、交通、電力、水道等のインフラの整備に加え、義務教育制度施行した結果、台湾人の就学率は1943年時点で71%とアジアで日本に次ぐ高い水準に達し、義務教育以外にも実業系の教育機関を設置し、多くの台湾人を日本に留学させて台湾の行政、経済の実務者養成を行いました。

このような日本が台湾で実施したインフラ整備や人材育成は、戦後の台湾の経済発展、民主化に大きく貢献しました。16世紀以前の台湾には、マレー・ポリネシア系の原住民が住んでおりましたが17世紀になってオランダ人の支配を受け、その後日系二世で明国の重臣だった鄭成功(テイ・セイコウ)がオランダ人を駆逐して初めて漢民族の支配を受けたものの清国の攻撃を受けて鄭一族の統治は終わり、対岸の福建省、広東省から相次いで多くの漢民族が移住し、一部の原住民と混血しながら、現在の台湾人の大半を占める本省人となっていきました。

そして、彼らは前述のように当初、日本の統治に反発していたものの、日本のインフラの整備や人材育成に理解を示すようになった頃、終戦となり中国本土から50万の兵士とともに亡命してきた蒋介石一派による支配を受けることになりました。それでも当初、本省人たちは支配者が日本人から同胞でもある漢民族になったことを好感しました。

しかし、蒋介石一派は大陸反攻を国是とし軍事を優先し日本が統治時代に行なったようなインフラ整備や人材教育などを後回しにしたため、一部の本省人たちは「犬(煩いかわりに役には立つ)の代わりに豚(食べるばかりで役たたず)が来た」(狗走豬擱來)と蒋介石一派を揶揄し、日本の統治時代を懐かしむ風潮が生まれるようになりました。

国民党の前総統の李登輝氏は、蒋介石とその息子の蒋経国による国民党の独裁体制を廃し、台湾内での民主化を実現し、台湾の歴史教科書「認識台湾(歴史編)」でそれまで軽視されていた台湾史を本国史として扱い、特に日本の統治時代を重点的に論じ、日本の統治時代を「苛烈な時代ではあったが、今現在の台湾があるのは統治時代があったからだ」と総括し、当然反論も有りましたが、このような親日的な考えが徐々に台湾の人たちの間に浸透していったと言われております。

今回の旅行では、昨日の「台湾旅行を終えて思うこと(3)」で、台湾大学と台湾総統府の建物を見る機会に恵まれたことから台湾の人たちの親日ぶりは実感できましたが、それが日本への感謝にまで至っていることを目撃できる機会は有りませんでした。しかし、2日目の日月潭観光の折、この湖に日本統治時代に日本人によって作られた水力発電所が戦後の台湾の近代化に大きく寄与したとの説明を受け、台湾のひとたちの感謝の思いを垣間見たように思い、嬉しく思いました。

しかし帰国後にネット索引で、台湾の台南県・官田郷にある烏山頭ダム堰堤に戦前、ある日本人の業績に対する感謝の思いから慰霊碑が建てられ、毎年彼の命日には慰霊祭が行なわれていることを知って興味を抱き更に詳しく調べたところ、その日本人は金沢出身の八田與一氏で、大正から昭和にかけて台湾での水利事業に身を投じて不毛の地だった台湾最大の平野を豊穣の地にしたことから台湾の人たちから尊敬され、慕われていることが判りました。

今回の旅行では、この慰霊碑を見学することは出来ませんでしたが、日本では殆ど知られていない八田與一氏のことをもっと調べてみたい衝動に駆られました。そこで、明日の日記、「台湾旅行を終えて思うこと(5)」で彼の業績に触れてみたいと思います。尚、日月潭の名前の謂れが、太陽と月に似ていることに由来しているとのことですが、下の衛星写真からは、どんなに想像を逞しくしてみても私には太陽と月に似ているとは思えないのですが如何なものでしょいうか。


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