雑感記 第24章 田中城と家康の死

(1)田中城と藤枝 (2)田中城と家康

藤枝市郷土博物館所蔵の田中城模型

復元された田中城・二階櫓と城門 唯一残ってる三日月堀の一部
上杉さんのサイトより引用上杉さんのサイトより引用


私の母校の藤枝東高がある静岡県・藤枝市の旧市街地は、JR東海道線は通っていないものの東海道の宿場町、田中城・田中藩(最後の藩主は本多家)4万石の城下町だっただけに、現在でも駿遠地方の中核都市藤枝市の中心街として発展しております。

その母校の近くに西益津小・中学校がありますが、そこに田中城がありました。この城は日本で唯一の直径およそ600mほどの円形輪郭式の城で、飛行機で上空から見ると下の航空写真でお判りのように堀の遺構が僅かながら残っているので円形の輪郭を確認できます。私の母方の実家はこの田中城の近くで代々庄屋をしていたためこの地区に土地を所有していました。ある時、実家に泊まって母にこのことを話したら、大正の末期、子供だった母は殆ど田圃だらけのこの土地で半円状に曲がった堀のようなものを見掛けたと話してくれました。

上空から見た田中城の城跡
この画像は上杉さんのサイトから引用させて頂きました。

多分それは上の画像の右側に半円状に見える筋の部分と思われますが、明治維新で城が取り壊され、本の丸、二の丸に西益津小学校、三の丸に西益津中学校が建てられ、周囲も一部宅地化しておりますが戦前まではまだ堀が残っていたように思います。と言いますのは、私が小学生の頃、遠足で田中城跡から東南の方角10キロぐらいのところにある高草山(503m)の頂上から田中城跡が亀の子状にはっきり見えた記憶があるからです。

田中城の輪郭が同心円状と言っても実際は冒頭の画像のように楕円形の上、外堀と内堀の間に三日月堀(右上の写真参照)が当時はまだ残っておりましたので、丁度この三日月堀が亀の首、内堀が亀の甲に見えたものと思われます。田中城が「亀城」とも言われたのはこのためと言われております。この三日月堀は「丸馬だし」とも言われ、敵軍が大手門から馬に乗って攻め込んできた時にこの堀を迂回するため馬の位置が本丸から見て横になるので矢や鉄砲で射止めやすくなるために作られ、田中城にはここ以外にも何か所か有ったようですがこの大手門の前の三日月堀が最も大きかったものと思われます。

この三日月堀は、現在でも右上の写真に見られるように半分ほど残っており、当時を偲ばせてくれます。この堀以外は殆ど埋め立てられましたので、当時の様子を忍ぶには上空から眺めるしかありません。


母校の同窓会では田中城と家康の死については珍説は出ずじまいで、鯛の天麩羅を食べて田中城で死んだと思っている同窓生が多いのには驚きました。家康が田中城で天麩羅を食べたのは事実のようですが、記録によれば死亡したのは居城の駿府城となっておりますので田中城で死亡との説は正しくないと思います。 そこで、以下私の推論を交えて家康に死について物語風に書いてみたいと思います。

家康は、トヨタ自動車本社所在地の豊田市街から東に10キロの国道301号沿いの山里の徳川家発祥地の松平郷で育ちましたが、僅か2歳で父の命で実母と別離させられ、更に今川、織田の両雄の狭間にあって、15歳まで織田、今川の人質生活を余儀なくされましたが駿府(静岡)の今川家での人質生活が家康と田中城を結びつけるきっかけになったようです。

家康はこの駿府で駿河湾で獲れる新鮮な魚の味を覚えたようです。三河の豊田に始まって、岡崎、浜松、京都、大阪、そして東京と渡り歩いて慶長12年(1607年)に隠居する時に、幼少の頃過ごした駿河の温暖な気候と新鮮な魚の美味しさを思い起こして駿河で余生を送ることを決断したのでした。

家康の魚好きは、鰯の目刺しを常食していたこと、鰯を保存食にするために駿府城の台所方の役人戸川半兵衛に作らせた黒はんぺんを好んで食べたこと、私の自宅近くの常楽寺で命を2回も助けられた恩義を感じて知多半島にも何回も足を運び知多半島先端の師崎まで出向いて鯛を賞味したことからも間違いないと思われます。

家康は天正10(1582)年頃、武田軍が立て籠もる田中城を攻めましたが攻め落とすのに苦労し焼津市内にあった原川新三郎の家を本陣とし、彼の協力を得てやっとの思いで2年後に実に7年もかけて田中城を攻め落としました。そのことを恩義に感じた家康は鷹狩りに焼津にくる折りに原川家を訪問し門前の大きな石に旗を立てたことから「旗かけ石」の言われが残っております。

田中城を攻め倦んだの三日月堀の存在や付近の瀬戸川の水を引水して城の周辺を湿地帯にしたことによるもので如何に難攻不落の城であったかを物語っていると思われます。それだけに家康にとって田中城には思い出が深く、この近くに鷹狩りに来る度に田中城に寄ったと言われております。 家康にとって田中城周辺は鷹狩り、原川家、魚の賞味等楽しいことが多く、老齢の身を駆使してでも出掛けたかったところだったと推察します。

しかし、いくら好きでも箱根、鈴鹿と並んで東海道の三大難所の峠の宇津谷峠を駕籠や馬で越えるのはやはり70歳を越える老齢の身には辛かったらしく、実は久能山の麓の海岸から焼津の海岸まで軍船に乗って往復したのです。その場合、警護役に焼津の漁船を駆り出したのですが、当時漁船は七丁櫓以上の使用を禁じられていたため多くの櫓で漕ぐ軍船には追いつけません。そこで帆を貼ってみたのですがそれでも追いつけません。

家康は苛立ってもっとスピードを出すように家臣に命じました。これに対し焼津の船元締は「公儀禁制の八丁艪にするしかございません」と言上したところ、「焼津の漁船に限り八丁艪を許す」との許しが出たことから、軍船に追いつけるようになり、この八丁艪の漁船はその後焼津の漁業発展の原動力になったと言われております。まさか、我が故郷、焼津の漁業発展の陰にこのようなエピソードが有ったとは知りませんでした。最近、この八丁艪船の復元が焼津で行われております。

我が故郷、焼津はカツオ、マグロなどの魚と、焼津神社の荒祭り、そして小泉八雲の避暑先が有名でしたが、魚はマグロ船の入港が激減して衰退し、荒祭りは大人しくなって魅力が無くなり、小泉八雲の避暑先の山口宅は明治村に引き取られるなどして街の活力は失せてしまいました。こんなにも家康の足跡が多く残っているなら、もっとこれらを観光資源として活用したらいいのにとつい愚痴をこぼしてしまいました。


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