雑感記 第30章 田中城と家康の死

(3)家康、田中城に最後の鷹狩りに (4)家康、田中城で食事の後に発病

家康が鷹狩りをしたとされている高草山山麓
(前を流れる川は瀬戸川)

焼津市の家康の鷹狩り行列祭り
(焼津市商工会議所HPより)


以下の記述は私の故郷、静岡県・焼津に言い伝えられていることをベースに、私の想像で書いておりますので、史実と異なる点も多々有り得ることを予めお断りしておきます。

名古屋市内には「茶屋新田」、「茶屋ケ坂」のように茶屋の名の付く地名が有ります。 本阿弥家のライバルとして茶屋家、角倉家などが有りましたが、茶屋家は堺の豪商で、代々 茶屋四郎二郎と名乗っておりました。本能寺の変の折りにいち早くその情報を徳川家康に伝えたことは有名で、、家康はこの情報に基づいて京都から一気に伊賀越えした後、白子から伊勢湾横断して知多半島の大野に渡り我が町半田にある常楽寺に逃げ延びたことはこのサイトの雑感記 「第21章:家康の伊勢湾横断逃亡作戦」でも詳細に紹介しております。

茶屋家(中嶋良延)はこの情報提供や武器調達その他の功績により家康より朱印貿易の許可を得、また徳川御三家の呉服御用達商人としての地位を与えられ、富を築き、良延の息子中嶋長吉は尾州茶屋の初代を築き、その子孫たちは鎖国で朱印貿易が廃止されると私財をなげうって新田開発に乗り出しております。 東京福祉大学創立者・総長の中島恒雄氏はこの茶屋四郎次郎清延の第17代目の直孫として知られております。

このように、茶屋家は徳川家にとって単なる御用商人ではなく、特に家康にとっては苦難の時代から行動を共にし、家臣の立場では出来ないことを引き受けてもらったことから恩義を感じ、重用していいたようです。小田原攻め(1590年)の折りにも家康の本陣を茶屋四郎二郎が訪れて、南蛮料理を振る舞っており、家康が駿河に隠居した後もいろいろな情報を伝えていたようです。

徳川四天王一角として家康とともに、三河一向一揆、姉川の合戦、三方ヶ原合戦、長篠合戦、高天神城攻略戦に従軍して奮戦し、本能寺の変の折りには家康の伊賀越えに随従して家康を守り、その功労により後に館林に館林10万石を与えられた榊原康政の兄、榊原清政の長男の榊原清久は小さい頃から家康に仕え、父の跡を継ぎ、家康の居城・駿府城を海から守る役割を担う久能山城の守将を務めておりました。

そして、家康が田中城近辺に鷹狩りに出掛ける際には、家康を軍船に乗せて久能山沖から焼津沖までの30キロほどの海路を往復して送り迎える役割も担っておりました。何故、わざわざ海路を選んだのか定かでありませんが、陸路ですと難所の宇津谷峠越えとなって老齢の家康にはしんどかったのではないかと推論します。しかし、そのお陰で軍船の警護を務めた我が故郷焼津の漁師たちに八丁櫓船の特権が与えられて漁業発展の源になったことは幸運でした。

家康が生涯を通じて最も愛好した道楽は、調教した鷹を野山に放って野鳥を捕まえさせるという「鷹狩り」でした。鷹狩りは遠距離かつ長期間にわたることが多く、その回数は1000回以上とも言われておりますが、家康にとって鷹狩りは、健康保持と同時に農民の生活状況の視察、地形の察知、軍事訓練、街道や宿場の整備、外様大名の監視、威圧などの目的も有ったとされております。

東京、静岡周辺には家康の鷹狩りの足跡を示すものが数多く残されており、我が故郷焼津の「家康の鷹狩り行列」の催しもそのひとつで、家康が隠居後最も多く出向いた田中城近辺の鷹場に出掛ける際、焼津の海岸から田中城近辺の高草山(上の写真)の麓にかけて鷹狩りの一行が、焼津の村落を通ったことに由来しているようです。

  元和2年(1616)1月のこと、駿府政権のスタッフでもあった茶屋四郎二郎は、駿府城で家康に謁見し、京・大阪の様子を話したところ、家康は大変喜んでその話しに聞き入りました。そこで、茶屋四郎二郎は鯛をから揚げにしてニラをすりかけて食べる料理が京で流行っているのでこれを奨めたところ、家康はことのほかこの料理に興味を示し、久能山城の守将の榊原清久に鷹狩りで田中城の行く折りに城内で試食できるよう準備することを命じました。

元和2年(1616)1月20日、清久は、家康一行を軍船に乗せて久能山沖から焼津沖まで行く折りに警護役の焼津の漁師に久能山沖で獲れた鯛2尾と家康の好物の興津鯛(甘鯛)3尾を献上させ、田中城でこれを同行した茶屋四郎二郎に料理させて家康に献上しました。家康一行の中には、料理役の茶屋四郎二郎をはじめ、家康の10男で駿河・遠江50万石を与えられ駿府城で家康に養育されていた徳川頼宣(後の御三家紀州藩の始祖)、家康の11男で水戸へ移されて25万石を与えられたまたま駿府城に立ち寄っていた徳川頼房(後の御三家水戸藩の始祖)も加わっており、何時になく賑やかでした。

この時の料理法は鯛の切り身に小麦粉をつけてかやの油でから揚げにしてからニラをすりかけたものと思われます。この料理が美味しかったのか、家康は何時もよりやや多めに食べてから、徳川頼宣、徳川頼房等を引き連れて鷹狩りに出掛け夕刻、田中城に戻ったのですが、深夜の午前2時頃になってにわかに腹痛を催し、痛みが烈しくなったので早馬を駿府に出して主治医の片山宗哲を召そうとしましたが宗哲は外出しておりませんでした。。家康は自ら調合して常備薬として持っていた「万病丹」を服用し何とか小康状態を保ちました。

家康は自分のお腹に寸白(道教の伝えによる、人体に住んでその人が悪いことをすると庚申の日の夜中に天に上って天の閻魔に密告すると江戸時代には本気で信じられていた虫のこと)がいて暴れるのでそれを鎮めるために薬学医学書を勉強して猛毒のトリカブトから「万病丹」、砒素と水銀から「銀液丹 」をそれぞれ調合して粒剤にして常時持っていたと言われます。つまり、「毒をもって毒を制する」流のやり方で危険を伴うことから主治医の片山宗哲は、これを戒め彼が調合する薬を飲むように強要したところ、家康は烈火のごとく怒って後日、駿府城に戻ってから名医の誉れ高い宗哲を信濃国に配流してしまいました。

家康がこのような薬を何時も持っていたのは、背中の出来モノを取ったり、66歳と72歳の時に相次いで罹った淋病と梅毒を人に見られることなく自分で治療出来るからではなかったと私は推定します。家康が活躍していた文禄の末から慶長にかけて外国人を経由して性病が大流行し、女好きの家康にもうつり息子を二人も性病がもとで亡くしていることから相当気にかけていた節が伺われます。梅毒の治療薬としては当時中国から輸入されていた「山帰来」が有ったようですが家康には効かなかったと言うよりもそのような薬を服用することを他人に知られるのを嫌ったのではないかと思います。

家康は他に「千百丹」、「寛中散」、「銀液丹」、「紫雪」なども調合しており、特に、「紫雪」は孫の家光が病気になり医者がサジを投げた時に与えたところ一度の服薬で快方に向かったと言われ、他にも家臣が病気になった時にもこれらを服用させ治癒した家臣は命を賭してでも家康に忠節を尽くしたことからあの強力な家臣団育成に寄与したようです。また、このような毒薬を微量に服用することでバイアグラのように強壮剤になることを家康なりに思いこむことで、記録に残っているだけでも11男6女の子宝に恵まれて徳川家を盤石な体制にすることが出来たのですから、これらの薬は家康にとっては極めて重要な存在だったように思います。

家康の容態は小康状態は保っていたものの一向に快方に向かわないので、駿府政権のスタッフだった駿府城の重臣たちは徳川頼宣等とも相談の上、三ケ所御町奉行落合小平次を飛脚に立てて江戸に急を知らせました。当時、駿府城には板倉勝重等の駿府奉行衆5名に駿府町奉行、南光坊天海等の僧侶2名、林羅山等の学者、茶屋四郎二郎等の豪商5名、三浦按針等外交顧問2名と多くのスタッフを抱えて駿府政権とし実質的に日本の政治、経済。外交を支配しており、江戸幕府は江戸(関東地方)を支配しているに過ぎませんでした。

こうして田中城は大騒動となり、駿府の武士たちをはじめ々見舞いの家臣たちでごったがえしになりました。そして漸く3日後の24日になってやや快方に向かってきたことが判ったので家康は駿府城に帰ることができました。知らせを受けた将軍秀忠は2月1日に江戸から、昼夜兼行で翌日駿府に入り、京の名医らを召集して治療をおこなわせました。更に、2月10日には伊達政宗が家康見舞いのために仙台を発ち23日に駿府入りし、 後水尾天皇も勅使を派遣し、親王、公家等からも見舞いが相次ぎ、家康重態のニュースは全国に伝わりました。

2月11日には、後水尾天皇は三宝院義演に命じて家康のために普賢延命法を清涼殿で修させ、23日には 勅使武家伝奏の権大納言広橋兼勝と同三条西実条を駿府に遣わせ、更に全国の大名家からも見舞いの使者が駿府入りしております。この間の病状は危篤と言うほどでもなかったもの一進一退を繰り返し明らかに快方に向かっていたわけではなかったと言われます。しかし、2末頃から病状が悪化し食事が喉を通らないようになりました。

それでも、3月27日に駿府城で執り行われた太政大臣任官の儀式には正装して勅使を饗応したとの記録が残っておりますのでまだ寝たきりの状態ではなかったように思われます。太政大臣は武家としては最高の位で、平清盛、豊臣秀吉に次いで3人目で、むしろ遅い任官だったように思います。 そして、3月29日には、全国から諸大名が領地を長らく留守にしておくのは好ましくないとして帰国するよう命じておりますのでこの時点でもまだ気力は充実していたものと思われます。


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