雑感記 第30章 田中城と家康の死

(5)家康、駿府城で逝去

復元された駿府城・巽櫓駿府城跡にある家康公の銅像

4月に入ってからは寝たきりになり、死を覚悟した家康は4月2日、病床に側近の本多正純・金地院崇伝・南光坊天海を召し寄せ遺言しておりますが、その中でも次の一文に家康の優れた人格と為政者としての器量の大きさが伺われ後世の人をして魅了するものが有ると思います。ここに、天下の形勢に関係なくひたすら我が子秀頼の後事を託した秀吉の遺言と大きな違いが有るように思われてなりません。

わが命旦夕に迫るといえども、将軍かくおわしませば、天下のこと心安し。されども将軍の政道、その理にかなわず、億兆の民、艱難することあらんには、誰にてもその任に代えらるべし。天下は一人の天下にあらず、天下は天下の天下なり。たとえ他人が天下の政務をとりたりとも、四海安穏にして万人その仁恵を蒙らば、もとより家康が本意にして、いささかも恨みに思うことなし。

私の命は今や風前の灯火であるが、将軍秀忠公がこのようにしっかりしているなら天下のことは安心できます。しかし、もし将軍の政道が道理に外れ、万民が難儀して苦しむようなことが有れば誰でもよいから国を統治する将軍職を交代して頂きたい。天下は将軍一人のための天下ではなく、天下万民のための天下である。 たとえ徳川家以外の人が天下の政務を執り行なったとしても、四海安穏になり、万人がその慈愛に満ちた政治の恩恵を蒙ることができるならば、もとよりこの家康も本望で、いささかも恨みに思うことはない。

死を直前にした人が心にも無いことを言うことは考えられません。徳川家以外から将軍を立てても構わないとの思いは本心だったと思いますが、それ以上にそんなことは起こり得ないほどに徳川の体制を盤石にしてあるとの強い自信の現れともみることが出来ます。私はどちらかと言えば、関ヶ原の合戦以降の家康の豊臣家に対する仕打ちには反感を覚え、家康憎しの思いが強かったのですが、こうして家康のことを調べていくうちに、彼は本当に戦争のない平和な国作りを第一に考えていたのではないかと思うようになりました。

幼少の秀頼を立ててもそれを取り巻く大名達の思惑があって再び戦乱の世になりかねないと憂いそれを阻止するには豊臣体制を崩壊させた上で徳川家を盤石にする必要が有ると言う、この得手勝手にも思える家康の考えは、250年に及ぶ平穏な時代をもたらして明治維新にバトンタッチすると言う日本にとって理想的とも言える結果を招いたと考えれば一連の家康の行動も理解できるように思えるのです。

そして、元和2年(1616)4月17日、午前10時、家康は近親者、重臣、譜代大名に見守られながら75歳の波乱に満ちた生涯を閉じました。
官位は、「従一位右大臣征夷大将軍源氏長者淳名奨学両院別当」、
戒名は「東照大権現安国院殿徳蓮社崇誉道和大居土」でした。

家康は、「遺骸は久能山に納め、葬儀は増上寺で行い、位牌は三河の大樹寺に立て、1周忌がすんだら日光山に小堂を建立してわが霊を勧請せよ、西国のかたは心もとなく思へば、我像をば西向に立置べし、」と遺言しておりましたので、遺体はその日のうちに降りしきる雨の中、内輪で久能山の家康廟に葬られました。

家康は4月2日の遺言で、冒頭の一文以外に、「遺骸は久能山に納め、葬儀は増上寺で行い、位牌は三河の大樹寺に立て、1周忌がすんだら日光山に小堂を建立してわが霊を勧請せよ関八州の鎮守となろう。」との一文も残していたからでした。更に、死ぬ前日には「東国は譜代だから心配ないが、西国を鎮護する為、久能山の我が墓所に、神像を西に向けて安置せよ」 との遺言も残しているのです。

この遺言から察するに、家康は「東国は徳川家に忠節を誓う譜代大名が多いから心配ないと思うが、久能山の遺骸の一部を日光に移して霊廟を作って祀って欲しい。そうすれば関八州の鎮守となって守ろう。しかし、西国には譜代大名が少ないので心配であろう。そんな時は東の久能山の私の神像が西を向いているのでこの神像に向けて拝んで欲しい。そうすれば鎮守となって守ろう」と言いたかったのだと私は勝手に解釈しました。

家康が没して数ヶ月後、神となった家康の神号をどうするかが問題になり、ともに家康に重用された二人の僧侶、天台宗の天海と臨済宗の崇伝の間で論争になりました。崇伝は、怨霊神を除けば神として祀られた初めての日本人である豊臣秀吉にならって明神として臨済宗にも関係がある吉田神道で祭ることを進言したのに対し、天海は天台宗に関係がある山王一実神道で権現として祭ることを進言し真っ向から対立しお互いに譲りませんでした。

この論争には秀忠が立ち会いました。家康が臨済宗を重用しいることと、崇伝には、豊臣家の寺である方広寺の鐘に刻まれている『国家安康』、『君臣豊楽』に難癖を付ける知恵を家康に具申して大坂冬の陣を有利に導いた功績が有ることなどから崇伝に軍配が上がると思われたのですが、天海の次の一言で秀忠は天海の山王一実神道を取りました。

「明神は不吉にございます。豊国大明神をご覧下さい」
天海は、 豊臣秀吉は豊国大明神として祀られたものの滅亡して家康により廃祀され、神号の大明神も廃止され、その後の豊臣一族も滅びていることを言いたかったのでした。 神号を「東照大権現」とし、翌1617年2月21日朝廷から正式に伝達されました。そして更に天海はまだ久能山の墓所も完成しない前にやはり家康の遺言と称して1617年年4月8日、久能山の墓所から家康の遺体を掘り起こして日光に移して改葬し、ここに華麗な日光東照宮が建築されました。

家康が自分が神となることに拘ったのは、自己顕示欲も有ったのかも知れませんが、遺言の「日光山に小さな堂を建てて・・・関八州の鎮守となろう」からは、本当に神になって国を守りたいとの思いが伝わってくるようです。決してあのような豪華絢爛たる日光東照宮に祀るように命じたわけではなく、天海が拡大解釈し、祖父家康を敬愛して止まない家光が神格化を強調し過ぎたために、意志に反して自己顕示欲の強い神君 東照宮大権現として望んでもいなかった日光に改葬されたことは家康としては不本意だったと思います。
そして、静岡県民だった私としても残念に思っております。


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