雑感記

第 1 章 焼津を愛した小泉八雲のこと(1)

小さい頃、実家のある静岡県の焼津で海水浴していると砂浜に打ち上 げられたお盆のお供え物の野菜や果物が腐敗して悪臭を放っている のを、子供ごころにご先祖様が食べた跡と思っていましたが、波打ち際 の海面にそれらが漂っていると泳いでいても気分が悪くなるので、つい きれいな沖まで泳いで溺れかかったことも有りました。

そう言えば、明治時代にこうした日本の風習と急深で荒波寄せる、この 焼津の海、そして焼津気質が大好きだった外人さんが居たことを思い出 しましたので、彼のことに触れてみましょう。

彼は私の実家の近くの家の2階に下宿してお盆の頃になると私たちが泳 いだこの海岸で泳ぐのが大好きだったのですが、こうした腐敗したお供え 物を見てどう思ったのでしょうね。 彼の名前は、小泉八雲(ラフカデイオ・ハーン)と言います。

彼は海が好きだったので、夏休みを海で過ごそうと考えていた折り、以前 松江中学在職中の同僚で後に浜松中学に転任した田村豊久さんに浜松 付近の海に誘われたのですがが遠浅で気に入らず、たまたま同じ駿河湾 沿いの焼津に明治30年(1897年)8月4日に訪れ、その急深で荒波寄せ る焼津の浜が気に入ってしまったのです。
彼は1890年(明治23年)に特派員になる予定で来日したのですが、その待遇 の悪さに憤慨して失職していた時、当時文部省が外人英語教師を探していた 幸運に遭ってその年に松江中学に校長の2倍の月給百円の高給で迎えられ たのです。

しかし松江の寒さに耐えられず翌年の明治23年に暖かい熊本の旧制五高に 移ったのですが、ここも気性が荒い上授業時間が多いのに嫌気して3年の契 約期間が終わると、神戸の英字新聞クロニクス社の論説記者となり、ここで 1894年11月(明治27年)から96年8月まで住みますが、この間96年1月、45歳 のとき日本へ帰化して、小泉八雲となります。

帰化と前後して東大文学部の英文科講師となってほしいと外山東大学長から 直々に要請を受けますが、彼は週27時間も授業を持たされかつ不作法な熊本 のような所なら1週千円でも行かないと半ば断ったところ、外山学長は礼をつく して彼を迎えたのでこれを受け入れその年の8月に上京します。

週12時間の授業で月給400円という破格の好条件だったのです。 彼が焼津を訪れたのは、その翌年の明治30年の50才の時で小説家としての 地位を確立した頃でもありました。

目次に戻る次 頁 へ
P−1
inserted by FC2 system