雑感記
第1章 焼津を愛した小泉八雲のこと(2)
彼は、松江時代に結婚した小泉セツさんと5才の長男一雄さんと3人で夏休みの1ケ月をこの焼津で避暑しようと下宿先を探し、最初は新屋の浜の“秋月”という料亭に宿泊しましたが、いざこざがあって飛び出し、紹介された海岸通りの魚商人・山口乙吉さんの家の2階を借りることにしたのです。
以後、彼が夏休みになるのを待ちかねて焼津を訪れるようになったのは、焼津の海が気に入ったことのほか、焼津気質を象徴するような山口乙吉という人を得たこと、そして焼津の人々を好きになったことなどがその主な理由だったと思います。
実際、明治31年以後32年、33年、34年、35年、37年とほぼ毎年の夏1か月前後を焼津に滞在して、私たちが泳いだこの海岸での遊泳を楽しんだのです。このことは、焼津にちなんだ彼の作品の「焼津にて」「海のほとり」「漂流」「乙吉のだるま」など珠玉の短編や、また長男の一雄さんの「父、八雲を憶う」の中でも驚くほどくわしく記されており、彼の焼津そして焼津の海への思いが忍ばれます。
彼は、外山学長が去った後、東大側ともめごとがあって1903年(明治36年)3月で
東大講師を辞め、その翌年早稲田大学へ招かれて講師となった時に帰京する際、
乙吉さんに、「焼津へ別荘を建てたいから焼津ホテルの近くへ敷地を求めてほしい」
と依頼して約1か月後、彼は狭心症のため54才で帰らぬ人となってしまいました。
来日してわずか14年後のことでした。
私が彼が好きなのは、勿論「怪談」「雪女」等の小説もさることながら、私も大好き
だった焼津の海で泳ぐことが好きだったこと、そして焼津気質を彼が愛したことに
あります。
彼は、新聞社、松江、熊本、料亭秋月、東大等と何時も喧嘩別れのような状態で
別れておりますが、だからと言って彼が日本人嫌いとか、暴れん坊だったかと言う
とそうではありません。
彼は典型的な焼津人の山口乙吉さんを神様のように崇めて尊敬し愛していました。
山口乙吉さんは怒りっぽいところはありますが人情の厚い人だったと言われており
、多分彼もそんな山口乙吉さんに似た日本人的西洋人だったのではないでしょうか。
その焼津の海は焼津港の拡大工事で港になってしまいあの青松白砂の海岸の面影
は微塵も有りませんが、幸いあの山口乙吉さんの家は現在、名古屋近郊犬山市の
明治村の6号区の48番に移設され保存公開されております。
ただ、残念なのは森首相の神の国論で小泉八雲を引き合いにだしてその正当性を
裏づけるのに利用しているような印象を与えていることです。
八雲は自著の中で、神国日本について触れておりますが天皇を神格化しているわけ
ではないと思います。
いずれにしても八雲ファンとしては残念なことです。